冷たい花 #03
窓辺に置かれた行灯の火が、羽虫じみた聲でちりちりと唸った。
「お前、狂のこと知ってんのか?」
アキラは訊ねた。室内に落ちた影が、別種の生き物のように揺らいだ。
「…知らない。話に聞いただけ」
誰が、とは言わない。だからアキラはそれが、巷間の噂話の類であろうと判断した。
狂が有名なのは、悪い気はしない。興味を引かれた。
「そっか。…で?」
「何?」
「ホンモノ見た感想は?」
金眼の漢は猫に似た仕草で、軽く首を傾げた。
「さあ、ちらっと見ただけだし。でも、強そう…とは思う」
そして。
オレより強いのかなあ、などと言った。
「あ…ったり前だろ! お前なんか足元にも及ばねえよ!」
いかにも呆れた、という調子で、アキラは怒鳴った。身の程を知らないにもほどがある。しかし漢は意に介した気配もない。ただ、そう、と呟いてまた小さく笑んだ。
うすい唇に浮いたどこか残酷な色は、頼りない光源の所為でアキラの目には映らなかった。
遠くで鐘が響いた。亥の刻だった。
「もうこんな時間か」
狂たちの居る『牡丹の間』からは、未だ三味線の調べが聴こえていた。
今戻るのは気が進まないが、仕方がない。
「…じゃあ、案内したからな」
襖を開きかけたところで、背後から声が掛かった。
「あっちの部屋。まだ騒がしいみたいだけど」
呆けているとばかり思っていたが、漢はアキラが酒宴を快く思っていないことに気づいていたらしい。
「……しょーがねーだろ」
アキラは憮然として答えた。梵天丸は一部屋しか取らない、と言っていたし、さっきちらりと宿帳を覗いた限りでは、予定変更も無かった。気分は悪いが、かといって自分だけ野宿というのはもっと腹が立つ。なんで梵天丸が畳の上で寝るのに俺が外で蚊に食われなきゃならないんだ。
漢は緩く跳ねた金髪の先を、人差し指で弄りながら彼の背中を眺めていたが、やがてぽつりと言った。
「別に、泊まってってもいいけど」
「……は?」
つい先刻も同じような間の抜けた返事を、自分はした気がするが既視感というやつだろうか。
「案内してもらったし」
その理屈だとお前はほぼ毎回仲居を部屋に泊めなきゃならないぞ。
突っ込む代わりにアキラは溜息をついた。
もう口論する気力が残っていなかった。
大体さあ、と言いながらアキラは、座布団の上で膝を抱え直した。用意された寝床を使って構わない、と漢は言ったが、さすがに見ず知らずの他人にそこまで図々しくなれるものではない。
「狂はともかく、梵の奴はすぐ女にでれでれして、みっともないったらありゃしねえんだよ。そのくせ…」
オレより強いとこがムカつく、と口に出しかけて、アキラは言葉を止めた。
「そのくせ?」
「……なんでもねえ。とにかくオレは、絶対女にうつつを抜かしたりしないんだ。修行に差し支えるし!」
梵天丸の修行にも差し支えてくれりゃいいのに、と思いつつ、アキラは拳を握りしめる。どうにも矛先が彼に向きがちなのは、昼間のことを未だ根に持っているからだろう。
漢は狂や梵天丸に比すると格段に禁欲的だった。
梵天丸などはアキラの方が男としておかしい、などと抜かすし、実際ちょっと変なのかも、と洗脳されかかったりもしたが、こういう漢もいるんじゃないか。アキラは嬉しくなった。
彼なら多分、アキラの考えに賛同してくれるだろうと思った。
「うん。確かにいたら邪魔だよね」
果たして漢はアキラの期待を裏切らない答えを返した。そして、どうでもいいけど、と付け加える。
禁欲的、というより単に興味がないと言った方が正しいかもしれない。
「そうだよな!」
そう思う、と漢は言った。
「―――弱い奴をわざわざ側に置くなんて。信じられない」
口調が僅かに変化した。
その身を取り巻く明るい色彩は変わらないのに、
声音だけがじわりと冷えた。
「あんたは、なんで鬼眼の狂と一緒にいるの」
「え? 何でって、そりゃあ…」
二の句を継ぐ間はなかった。
行灯の光の中に、彫像のように座していた漢の姿が、不意に掻き消えた。
「! な」
閃く朱が見えたのは、ほんの一瞬。
とん、と耳朶のすぐ脇で床が鳴った。微かに畳が削れる雑音すら聞き取れた。間近に漢の両眼が見えた。金色だとばかり思っていた瞳は焔を点したように、わずかに赫かった。
あるいは首筋に触れんばかりの位置に振り下ろされた朱い鞘の、色をうつしていたのかも知れない。
耳の奥で、何かがざわざわと鳴っている。
数多の蟲が這い回るような不快な調べだ。
それが己の血流の音だと―――
鼓動の音だと、気づくのにずいぶんと時間がかかった。
漢のうすい唇が、やけにゆっくりと動く。
永遠とも思える時が流れた。
「…簡単すぎ。つまんない」
強いって聞いたのに、と漢はひとりごちる。
アキラの身体を半ば抑え込むように置かれた左手の、指が畳に喰い込んできしり、と哭[な] いた。
爬虫類の眼球が動く音が聞こえたなら、きっとこんな風だろう。
空気がひどく乾いている。
咽喉がひりつく。
信じがたいほど、漢の周囲の空気が熱かった。
まるで。
―――まるで今にも、
「こんな弱い奴、連れて歩いてるなんて…なんか幻滅」
彼が左手を引くのと同時に、アキラは動いた。
漢は鞘でその刀を弾いた。甲高い金属音が爆[は] ぜ、静寂を裂いた。
朱色の先に冷気がこびりつき、凝結した。
薄闇に煌めく氷に視線を疾らせると、漢はかすかに笑った。
「―――へぇ」
アキラは双剣を構えた。首筋が灼かれたように疼いていた。
漢がすう、と刀を抜いた。
切っ先が、三日月を思わせるゆるやかな弧を描いた。
(怯むな)
アキラは自身に言い聞かせた。熱い。
上手く呼吸ができない。それが極度の緊張によるものだと、自分でもわかっていた。
(敵わない、なんて思うな)
漢の瞳に、昏[くら] い愉悦の光がともる。獲物を狩る猫の目だ、とアキラは思った。
汗で滑りそうになる刀の柄を握り直した時、
からりと襖が開いた。
「…何やってんだ、オメーら」
床の間の、しおれかけた菊花の頭が落ち、乾いた欠片が散らばった。
それは本来なら、開戦の合図となるべきものであった。
梵天丸は気に留める様子もなくずかずかと部屋に上がり込むと、
「あっちの部屋じゃあ、寝るにゃ騒がしくってよぉ…」
言いざま、敷いてあった布団の上に引っくり返った。
金眼の漢は、さすがに呆気にとられて成り行きを見守っている。
「お、おい梵、ここは…」
「…部屋、まちがえたのかな」
間違えたのか、それとも。
梵天丸はまだ酔っているのか、赤い顔のまま鼾をかき始めた。
それとも、
―――助けてくれたのか。
…という考えは、些[いささ] か希望的に過ぎるかもしれない。
漢ははあ、とひとつ息をつくと、刀を鞘に納めた。毒気を抜かれたような顔をしている。アキラもそれに倣[なら] った。
「ねえ、これも仲間なの」
明らかに物を表す指示代名詞で漢は問うたが、アキラは敢えて指摘しなかった。
「さっき言っただろ」
漢はもう一度溜息をついた。今度は、先刻よりも盛大に。
「なんか……もう、がっかり」
彼が何に失望したのか正確にはわからなかったが、溜息をつきたい気持ちはアキラも同じだった。