冷たい花 #02

その夜は満月で、街道は意外なほど明るく、夜目にも白く視界に浮かび上がっていた。路上の砂利を踏む草履のかすかな足音と、朱塗りの高下駄のよく響く足音が、その上を行く。

アキラは背後を振り返った。

「どこまでついて来る気だよ」
「オレもこっちだから」
「だったらお前先行けよ」
「オレの勝手だし」

しばらく前からこの不毛な会話を繰り返しつつ、彼と金髪金眼の漢は連れ立って歩いていた。

(絶対あやしい)
明らかに自分を尾けている。こうも大っぴらだと『尾行』と言うのも憚られるが。
狂の首を狙う賞金稼ぎか、梵天丸に差し向けられた刺客だろうか、と思う。だが、それにしては漢はぼんやりとした風で、時折暢気に道端の花を眺めたりしている。
アキラはひとつ溜息を吐いた。

―――そんな訳ねえか。

怪しさだけは満点だが、殺気だとか闘気だとか、そういったものが全く感じられない。
フリだとすれば大した役者だが、
「カマキリ」
「……は?」
あまりに唐突な台詞に、アキラは思わず間の抜けた声を上げた。漢は路傍に咲く白い花を指さした。よく見ると、その一輪の上を朽葉色の小さな蟷螂[かまきり] が這っているのだった。

「…………」
アキラは無言で踵[きびす] を返した。
見立て違いだ。ただの馬鹿に違いない。
後ろからまた下駄の鳴る音が追いかけてきたが、もう振り向く気にもなれなかった。

 

 

「よう、遅かったじゃねえか!」
騒がしい旅籠の一室から、梵天丸が片手を振った。金髪の漢は、玄関先で宿帳に何か書き付けている。

『牡丹の間』と木札の掛かったその部屋は、酒と香の匂いに満ちていた。アキラは眉を顰めた。狂は奥の方で、いつものように仏頂面で杯を傾けていた。声を掛けたものか、とアキラが逡巡する間に、
廊下を、裸足でぺたぺたと歩く音が右手から近づいてきた。

「おぉ? 何だおめえ、生意気に女なんか連れ込みやがっ…」
梵天丸はそこまで言いかけて、目を眇[すが] めた。相当できあがっているのだろう、そうすると奥二重の瞼の上に、さらにひとつ皺が寄った。

「……男なんか連れ込みやがって」
「やな言い方すんなよ! 勝手について来たんだよ!」
違うってば、と漢は横槍を入れる。

「たまたま」
嘘つけ。お前たった今宿帳に名前書いてたんじゃないのか、と渾身で突っ込みたいのを、アキラは辛うじて堪えた。何を言っても腹のたつ答えか、脱力する答えしか返ってこない気がする。ただでさえ酒臭くて気分が悪いのだ。

まったく今日は最悪だ。
梵天丸は人を子供扱いしやがるし、変な漢にはからまれるし、宿は飯盛旅籠だし、小遣いは少ないし、

ねえ、と漢は言った。

「『菊の間』ってどこ?」
アキラの中で、何かがぷつりと切れた。
「んなこた宿の人に聞け―――!」

 

 

「……痛い」
刀の鞘で殴られた頭を撫でながら、漢は文句を言った。
アキラは物も言わずに、一番奥の十畳間の襖を引き開けた。

床の間に紅い菊が飾られていた。お手軽だが、菊の咲かぬ季節はどうするのか、と考えながら部屋を見渡すと、欄間に菊のかたちをした装飾がなされていた。

「ここが菊の間!」
なかば怒鳴るように、アキラは傍らの漢に告げた。
「ありがと」
漢は事もなげに言った。アキラは目を丸くした。
「なに?」
「い、いや別に」

他人に礼を言われるのは久しぶりだった。何しろアキラの周囲には、礼の言葉が辞書にない漢しかいないのだ。ちょっといいヤツかも、などと思いかけて、慌てて首を振った。
むしろこれが普通なんだ。あいつらがおかしいんだ。
いや、狂がおかしいってことはないだろうから梵天丸がおかしいんだ。

畳の真ん中に床が延べられているのを無視して、漢は部屋の隅に刀を抱えてうずくまった。それが幾分奇妙な形をしていることに、アキラは気がついた。刀の柄の側に、槍の穂先のような両刃が付いている。その分通常よりもやや短い刀身の鞘は、これまた鮮やかな朱塗りだった。

会話が途切れると、室内は数間先の喧騒が嘘のように静まり返った。
りり、と庭先から清[さや] かな虫の音が聴こえた。

「布団、使わねえのか? せっかく敷いてあるのに」
漢はちらりとこちらに視線を流し、問いかけとは無関係な応えを返した。
「…さっきの眼帯の男、知り合い?」
梵天丸のことだろう。アキラは頷いた。
「いっしょに旅してる」
「奥に、もう一人いたよね。髪の長い…」

言いながら、漢は指先で刀の下げ緒を弄んでいる。蝶の形にくくられた紫紺が揺れていた。
「―――ああ、狂のことか?」

 

「……狂」

 

漢の口許がほんのわずか、微笑に似た表情をつくる。
けれど凍える月のように。

その眼は笑っていなかった。

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