一夜の花

頭上が白く煙った。

強い風が吹いて、うすく色づいた花弁を霞のように散らしていった。見上げた瞳に灼きついた残像が消えると、あとには黒々とした空と、桜のまばらな白が残った。

しんと冷えた夜気が、中庭を歩く梧桐の頬に、手足に不快に絡みついていく。水を含んで、地表に澱 [おり] の如く降り積もる冷気。こういうのを花冷えというのだろう。
淡水の底を行くような感覚の中で、背中だけが熱い。

「…って」
すこしだけ掠れた声が、耳許に落ちた。
戻って、と八樹は繰り返した。泣きそうな声だった。
梧桐は彼の顔を見なかった。

「だめだ」

言った瞬間に後悔した。
それは自分の耳にも、ひどく突き放した言い方に聞こえた。背負った八樹の肩が、ぴくりと揺れたのが判った。続いて押し殺した、諦めたような小さな吐息。かすかに胸がしめつけられて、鼓動が早くなる。それを悟られまいとして、梧桐は足を速めた。白の中にほんの少し紅を流した色で、

桜並木は校門を出た先までも、視界を覆い尽くしている。

 

 

今度の大会には代表で出られると、いつになく弾んだ口調で八樹は梧桐に言った。
「ほう、貴様のようなひょろひょろしたチビを使うとは、剣道部も余程人材に困っているのだな」
「ひどいなあ。これでも前よりは伸びたんだよ」
八樹は言って、一歩梧桐に近づいた。そうして並んでみると多少目線の位置が変わったような気もするが、せいぜい一センチかそこらの話だろうと梧桐は思った。

「全然変わらんではないか」
「…君はそう言うと思ったけど」
不満げに呟くと、八樹はふと左の肩に手をやった。梧桐はわずかに眉を寄せた。脳裏にちらりと、制服の黒よりもなお暗くそこに拡がる血の色がひらめいた。

 

彼が梧桐を庇って左腕に傷を負ってから、一ヶ月余りが過ぎていた。
八樹は外科病棟で二日を過ごし、退院した次の日から学校に姿を見せた。本当は意識が戻ったその日のうちに病院を出たがったのだが、それはさすがに梧桐が止めた。

「馬鹿か。左腕が利かなくなるぞ」
八樹はしばらく目を伏せていたが、やがて
「…家には…」
「連絡していない」
連絡がつかなかった、とは言わなかった。
八樹は俯いたまま、そう、と呟いた。

そこには梧桐が初めて聞く、感謝に似た響きが込められていた。
だが、少しも嬉しくはなかった。

 

梧桐の視線に気づいたのか、八樹は左肩から手を放した。
「じゃあ梧桐君、俺、部活あるから」
「…ああ」
またね、と言った八樹の声音がどこか苦しげだったことに、

気づかぬ振りをしたのは、あれは罪の意識からだったろうか。

 

その日の放課後は風が強く、中学の敷地内に植えられた桜の木々が騒々と鳴っていた。そこに、悲鳴のような人声のざわめきが混じる。
梧桐は足を止めた。体育館の方から響いてくる。
耳障りな雑音の中に、知った名を聞いたような気がした。
梧桐は声の方角へ踵を返した。

「八樹! 八樹、おい、大丈夫か?」
入口近くに数人の剣道部員が集まっていた。彼らの身体の隙間から、床に倒れているらしい二本の足が見えた。

「どうした?」
梧桐は部員たちを押し退けるようにして中に入った。八樹の脇に座り込んでいた部員のひとりが、途方に暮れた様子で顔を上げた。
「梧桐君」
意識を失っているのか、八樹は紙のような顔色で目を閉じている。
「オレが…胴打ったあとに倒れて…」
伊東という名のその部員のことは、たびたび八樹と一緒にいるので梧桐も覚えていた。
「梧桐君、こいつすごい熱があるんだ。どうしよう、こんな時間じゃ病院も閉まってるし」
やっぱり救急車呼んだほうが、と言い募る彼を、梧桐は遮った。
「近くに知り合いのやっている病院がある。オレが連れて行く」
言いながら、梧桐は八樹の背に手をかけて起こした。身体がひどく熱を持っていた。梧桐は彼の道着の左袖を捲った。

「…!」
八樹の左腕は、肘の近くまで赤黒く腫れ上がっていた。化膿した傷口から発熱したのは明らかだった。一目見ただけで、梧桐は道着の袖を元に戻した。しかし、隣りにいた伊東は気づいたようだ。
「梧桐君…八樹のその怪我…」
それには応えず、梧桐は八樹の体を右腕を下にして横たえると、防具の紐を解きにかかった。
「お前らはもう帰れ。あとはオレが何とかする」

伊東の視線は八樹の左腕の上をしばらくさまよった後、足元に落ちた。
あと一週間で県予選なんだ、と、消え入りそうな声で呟く。
「こいつ、そのためにずっと…」

 

ずっと、痛々しいほどの努力を重ねてきた。
(…そんなことは)
自分が一番よく知っている。

 

八樹がうすく目を開いた。
熱のせいで潤んだ瞳が、薄暮の中でちかりと光った。
「八樹」
聞こえているのか、いないのか。昏い色の目でひたと梧桐を見据えている。
やがて視線はゆるゆると逸れた。

「…大丈夫」

誰にともなく彼は言った。自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「たいしたことないよ」
そう言って起き上がろうとするのを、梧桐は慌てて止めた。
「おい、無理をするな」
「無理じゃない」
出るよ、と血の気の失せた唇が動いた。

 

―――強くなれ。

そう言ったのは自分だ。
そのために八樹がどれだけ努力してきたか、
(…知っている)
彼には他に縋るものが無いのだから。

「出場は無理だ」
梧桐は断じた。伊東が横合いから、
「八樹、ごめん。オレが…」
「お前の責任ではない」
オレのせいだ、と言いかけた言葉は八樹の、悲鳴のような声に掻き消された。

「君には関係ない!」

「…八樹…?」
伊東ら剣道部員が、戸惑った目を八樹と、そして梧桐とに向けた。
梧桐は鳩尾を押さえて声を絞り出した。
「―――すぐに病院に連れていく」

それでも語尾が少し震えた。ほかに言葉が出なかった。

 

巻き上げられた花弁が、頬をかすめて飛んだ。
八樹の左手は、梧桐の胸の上に力なく垂れたままだ。
だが、済まない、と詫びるのはひどい自惚れのような気がした。

「…どうして」
背中で八樹が呟くのが聞こえた。
それはオレの台詞だ、と返してやろうかと思ったが、梧桐は結局黙った。
(なぜ庇った)
その疑問を、梧桐はずっと口にできずにいた。

―――お前はオレが憎いのだろう?

八樹の右手の指先が、見えぬ糸に繰 [く] られたようについと梧桐の襟元を辿った。

「…ねぇ」
首筋に絡んだ腕に、わずかに力がこもる。
しかし梧桐は足を止めなかった。
「俺に背中なんて向けていいの?」

 

風が、

一息に花を散らす音が、それと同時に耳を打った。
梧桐は聞こえないふりをした。

八樹は彼の制服の襟から手を放した。そして小さく、嘘だよ、と言った。
その声はひどく悲しげに響いた。梧桐は目を伏せた。
(…オレは間違ったのか)

ならば、ほかにどうすればよかったのだろう。

(…構うものか)
構うものか、と梧桐は思う。
ぽつり、と雨滴が足元の鋪道を叩いた。今夜は嵐になる。

纏いつく、不快な花冷えの空気も。
血の色を内に抱く、霞のような桜の花も。
そうして多分、
胸の底に積もる、どこか哀しみに似たこの想いも、

 

明日にはすべて散ってしまうのだ。

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