感傷の手

梧桐が車の免許を取った。
―――そう人伝てに聞いた時から、嫌な予感はしていた。

 

「おい」
土曜日の昼過ぎ、人気のない廊下で背後から声を掛けられた八樹は、ぎくりとして振り返った。窓から射す四角い陽光の中に、半屋が立っていた。
「…あ、半屋君か」
「何びくびくしてんだよ」
別に何も、と八樹は笑って否定したが、その微笑はちょっと引きつっている。
理由に思い当たったのか、半屋は珍しく笑みを見せた。
「梧桐だと思ったんだろ」

八樹は恨めしげな上目遣いで半屋を睨んだ。彼が上機嫌なのは、ここしばらく八樹が窮地に立たされているからだ。状況は芳しくない。はっきり言って命に関わる。

「………君も梧桐君に追い回されてみればいいんだ」
精一杯恨みがましく聞こえるように、八樹は低く呟いた。
が、半屋は意にも介さない。
「オレは来週一杯補習に出るからな、梧桐に付き合う暇なんかねェんだよ」
さも大変そうに半屋は言うが、どことなく楽しげに聞こえるのは悪意ゆえの幻聴だろうか。

 

梧桐が半屋に対して強硬な態度に出ない原因は判っている。今現在、彼の受けている補習というのが、真木教諭の英語のものだからだ。ついでに梧桐が、八樹にはやたらに強引な訳もわかっている。クリフォード・ローヤーが卒業してアメリカに帰り、三年次になって御幸の仕事が増え、半屋が真面目に授業と補習に出る回数が増えたからだ。おかげで八樹は梧桐に、一番扱いやすいお手頃品として認識されてしまった。夏の大会が終わった直後に剣道部を引退したのが、今となっては悔やまれる。

扱いやすさでは嘉神もいい勝負だと八樹は思っているのだが、今回の件において彼には致命的欠陥があった。

梧桐の車は比較的小さいらしい。

(俺も身長が2メートルくらいあればよかった…)
そうしたら車に入らないという至極尤もな理由で兵役免除になっただろうに。

 

「…ああそう。じゃあせいぜい今までサボリまくった遅れを取り戻せるように頑張ってよ」
「てめェもな。死んだら骨は拾ってやるよ」
軽口を叩いて、半屋は八樹の鼻先でぴしゃりとドアを閉めた。
いや、軽口だろうか。

案外本気かもしれない。八樹は溜息をついた。
「骨拾ってもらっても嬉しくないよ」
返事はない。八樹はしばらくその場に立ち止まっていたが、やがてとぼとぼと昇降口に向かった。

 

工業科の昇降口は生徒数が少ないため、あまり広くはない。目立たなくていい、と八樹は思いつつ、手早く靴を履いた。靴は体育科の校舎からはるばる持ってきたものだ。授業が終わると同時に校舎の裏手から体育館に入り、渡り廊下を通って芸能科・工業科を辿ってきた。

改めて考えると情けない。
なぜ自分がこそこそ逃げ回らなくてはならないのだろう。

 

靴を履いて出口に向かおうとした所で、八樹は足を止めた。
「………」
下駄箱と壁との間に、扉の方から薄く人のかたちに影がさしている。髪の毛の一部が特徴的に飛び出していた。八樹は無言のまま、じりじりと校舎内に戻ろうとしたが、すでに手遅れだった。

影の持ち主はほとんど一足跳びに八樹の背後に迫り、襟首をとっ捕まえた。
「わっ!」
「…このオレから逃げられると思っているのか」
その声音は、少なくとも地下50メートルくらいの位置から響いてくるような感じだった。

「ご…梧桐君、あの…」
「いい天気だなあ、八樹。絶好のドライブ日和だと思わんか?」
肩越しにおそるおそる振り向くと、梧桐は笑顔で、ことさら機嫌のよさそうな声を出した。だが虫の居所はあからさまに悪かった。最初に誘われてからたっぷり五日と半分、八樹はあの手この手で彼から逃げ回ったのだ。もう言い訳のネタも尽きていた。

「梧桐君、俺、今日はちょっと友達と約束が…」
まだ言い終わらないうちに、梧桐がぴしゃりと遮った。
「嘘をつけ。お前、友達なんぞおらんだろうが」
「…ちょっと、それ、酷くない?」
「ならばどこで誰と何時に待ち合わせだ」
八樹は必死に考えを巡らせた。半屋は補習、御幸はCFの撮影で早退している。
「―――か、嘉神君と…」
「嘉神なら今日は風邪で欠席だ」

間髪入れずにそう返すと、梧桐はにやりと笑った。勝ち誇った笑いだ。
誘導尋問にまんまと成功した刑事は、こんな風に笑うのではないだろうか。
「ついに尻尾を出したな、この古狐め。もはや言い逃れはきかんぞ」

梧桐は八樹の襟首を半ば引きずるようにして外へ出た。
戸外は陽射しが燦々と降り注いでいる。死ぬにはいい日和かもしれない。
八樹は観念して両手を組んだ。
(父さん、ごめんなさい。俺の命は今日までかもしれません)
先立つ不孝をお許し下さい、と呟く彼の胸中とはうらはらに、太陽は素知らぬ顔で明るく光を投げかけていた。

 

 

その車は学校の斜向かいにあるボウリング場の、駐車スペースの一画におさまっていた。
「…これ?」
比較的小さい、という前情報を忘れてダンプかタンクローリーを想像していた八樹は、少しばかり意表を衝かれた。梧桐の車は、至って普通の国産車だった。色こそ派手な赤だったが、他に際立った特徴があるでもない。八樹は後部バンパー付近に視線を走らせた。

車名は―――プレリュード。
TVコマーシャルで何度か見た覚えがある。
(…まだ普通かわからないけど)
実は特注品で、扉が上に向かって開くのかも知れない。
梧桐は運転席の側に回った。
「どうした、早く乗れ」

ドアは普通に横に開いた。

 

車の外見の普通さも扉の開き方も、みな自分を陥れるための罠だったに違いない。
発車して五分後には、八樹はそう考えていた。いくら車が普通でも、梧桐の運転が普通である筈がなかった。手始めに駐車場の車止めに乗り上げた。そしてボウリング場を出て間もなく、車体は激しく揺れ始めた。道は下り坂にかかっていた。

「ん? 妙だな」
梧桐は呟いて、なぜか自分の足元を覗き込んだ。
頼むから前を見て走ってくれ。
「…梧桐君、ギアの位置が違うんじゃないの」
「おおそうか」
梧桐は、なかなか詳しいな、などと不安を煽る発言をした。

八樹は車に関しては全くの素人だ。父の運転する車の助手席に、たまに乗るくらいのものだ。
アクセルとブレーキこそ判るが、クラッチペダルが何をするものなのかも知らないし、ギアの位置に思い当たったのは従兄弟が初心者の頃にギアの位置を間違えて車がガタガタ揺れた、と話してくれたのを覚えていたからだ。

―――だが、少なくとも従兄弟は自分で気がついた。

「梧桐君、ホントに免許、取ったんだよね?」
ギアを正しい位置に入れると、梧桐は憮然として顔を上げた。
「貴様、オレの腕を疑うのか」
言って、ダッシュボードを指し示す。
「そこに入っている」
「………」

八樹はダッシュボードの扉を開けた。中には彼の言葉通り、運転免許証と―――道路地図が入っていた。一体どんな小ずるい手を使って入手したのか。それとも日本の免許制度は、八樹が考えるより遥かにいい加減なのだろうか。梧桐は地図に目を留めると、嬉々として言った。
「そうだ、地図も入れておいたのだ。お前、どこか行きたい場所はあるか。どこでも好きな所へ連れて行ってやるぞ」
「……どこでもいい」
それは本心だった。どこでもいいから、

―――車から飛び下りて逃げたい。

本心の残り半分は、結局口に出せなかった。

 

 

どこでもいい、という言葉は梧桐の運転で安心できないのはどこへ向かうのでも同じだ、という諦めをも含んでいたのだが、それは大きな間違いだった。梧桐は最初、海でも見に行くか、と言った。しばらく走ってから突然思い立ったように、湖でもいいか、などと言い出した。
「…いいけど」
相模湖辺りだろう、と八樹は予想したのだが、プレリュードは相模湖脇をあっさり素通りした。
「ちょっと、梧桐君…」
どこに行く気なの、と問おうとした八樹の頭上を、鮮やかな青色の行先案内板が流れ去っていった。
一番上の表示が目に飛び込んできた。

『山中湖 70km』

梧桐は左手でダッシュボードを引っ掻き回すと、八樹に道路地図を押し付けた。
「この先は道がわからん。お前が案内しろ」
「梧桐君、まさか今から山中湖まで行く気じゃ…」
梧桐は事もなげに、それがどうした、と返した。窓外を深緑色 [しんりょくしょく] の木々が走り過ぎた。日が翳って、急に空が暗くなった気がする。
「着く頃には日が暮れるよ!」
「あと70kmという表示があっただろうが。70kmで走れば一時間で着く」

八樹はこの先の道をおぼろげに憶えていた。昔、父の車で一度通ったことがあったのだ。
今日は悪い予感ばかりが的中する日だ。
地図を確認する前から、自分の記憶違いではないだろうと半ば以上諦めていた。

果たして予感は過 [あやま] たなかった。この先には―――

 

道志坂、という一本道がある。
一本だが真っ直ぐではない。
有名な中禅寺湖のいろは坂に匹敵する、ものすごいヘアピンカーブの連続なのだ。

初心者の分際でそこを70kmで走り抜けようというのか。
梧桐ならやりかねない。しかし何と言えば彼を止められるだろうか。
初心者には無理だ、と言っても梧桐には無理だ、と言ってもムキになって挑戦するに決まっている。速度計の針は早くも60kmのわずか手前を指している。

「道志坂は信号がたくさんあるから、スピード出してもそんなに早く行けないよ。坂を抜けるまではゆっくり行こうよ」
なんとかほころびのない理屈を、八樹は引きずり出した。
人間命がかかると頭が働くものだ。

「なんだ、お前は来たことがあるのか?」
「一度ね」
なら仕方ないな、と梧桐はスピードを緩めた。八樹はどこかに脇道がないかと道路地図を眺めたが、狭くて細かい道しかない。少し経つと、彼らの走る道幅も狭まってきた。

 

ぱしん、と音を立てて何かが額に当たり、八樹は地図から目を上げた。半分ほど開いた車窓から、丈の高い草が入り込んでいる。ガードレールの外から伸びている草だった。
そのガードレールと助手席の窓の隙間は、3cmほどしかない。

「梧桐君! なんでこんなに左に寄るんだよ!」
「仕方なかろう、道が狭いのだ」
「そこまで狭いわけないだろ!」
梧桐はセンターラインから1メートルほども外側に寄って走っていた。街中でも少し左に寄ってるな、とは思ったが…油断した。あの時は道が広かったから、大して気に留めなかったのだ。

「ガードレールにこすりそうだよ。もう少し右に寄ってくれよ」
「ぬう…」
しぶしぶと梧桐はセンターラインに車を寄せた。が、気をつけていないとずるずると元の位置に戻ってしまう。道が狭い上に周りが森で薄暗いから、対向車が実際より大きく見えるのだろう。

八樹が道路地図と、梧桐がセンターラインとにらめっこをした状態のまま、車はほとんど半円に近いカープを次々と走り抜け、奇跡的に道志坂を越えた。
「………」
八樹は数百分の一の縮図から顔を上げると、指の付け根でこめかみを押さえた。揺れる車内で細かい図をずっと見ていたせいで、目がちかちかした。
「おい、道が分かれているぞ。どっちだ?」
100メートルほど前方の三叉路を顎で示して梧桐が尋ねたが、八樹は地図を膝の上に伏せた。

「…停めて」
「なに?」
「……気持ち悪い」
梧桐はちらりとこちらを振り返ると、意外にも文句も言わずに車を路肩につけた。多分、相当ひどい顔色をしていたのだろう。車を停めると梧桐は二人分のシートベルトを外し、片手を伸ばして助手席のシートを倒した。

「ちょっと待ってろ」
そう言い置くと、梧桐は運転席側のドアを開けて外に出て行った。取り残された八樹はしばらくシートに仰向けに転がっていたが、胃の辺りが余計に圧迫される気がして姿勢を変えた。サイドレバーを掴んだ左手を枕に、助手席で胎児のように丸くなった。そうすると少し楽だった。

 

靴音が近づいてきた。
梧桐が戻ってきたのだろうか。顔を上げる前に扉が開いた。

「…何をやっとるんだ」
呆れたような拍子抜けしたような声で呟くと、梧桐は再び運転席に乗り込んだ。八樹は返事をしなかった。口を利くのが億劫だった。
ドアの閉まる音と、ビニール袋か紙袋だろうか、がさがさという音が聞こえた。それから短い破裂音と、布地を振り回しているような気配。空気が動いて、頬にかすかな風が当たった。
「……?」
目を開けようとした時、額にひやりとした物が押し当てられた。
「…なに?」
「そこの店で買ってきた」

質問の答えにはなっていないが、冷却剤か何かをタオルで包 [くる] んであるようだ。
眼の奥に籠った熱が、引いてゆく感覚が快かった。八樹は軽く息をついた。

「車に酔う体質なら、初めに言っておけ」
「…君の運転する車じゃなければ酔わなかったと思うんだけどね」
「オレの運転が悪いというのか」
君の運転以外の原因があるなら俺が訊きたい、と思いつつも、言い合うのが面倒で八樹は黙った。梧桐は八樹の頭から落ちかかったタオルを左手で押さえた。八樹は目を閉じたまま尋ねた。
「大体、突然免許なんか取ってどこ走る気なの」

答えが返るまでに、梧桐にしてはずいぶん長い間があった。

「…国内の狭い道を走るために取ったのではない」
「―――」

 

 

―――いずれは、

脳裏に、その言葉と共にあざやかな情景が閃いた。
遅咲きの桜が、花弁の最後のひとひらを散らしていた。

お前が決着つけなきゃならない事だって判ってるんだろう?

この春、クロ助は一人でブラジルへ帰っていった。
八樹はあまり乗り気ではなかったのだが、その頃にはすっかり彼と仲良くなっていた御幸に、見送りに行こうと引っ張り出された。

「君たちが見送りに来てくれるなんて嬉しいな」
クロ助はそう言って、梧桐の右手を両手で掴んで大袈裟に振り回した。
「好きで来たわけではない。放せ」
「相変わらずつれないなぁ」
ぺろりと舌を出してみせると、クロ助は御幸の側へと踵を返した。梧桐は彼に振り回された右手を拳の形にしたまま、上着のポケットに突っ込んだ。怒ったような態度だったが、その割には終始静かだった。

御幸が半屋と、嘉神が他の生徒会メンバーと話している間に、クロ助は再び猫のように梧桐の脇に歩み寄った。その時、彼らの近くにいたのは八樹だけだった。

「勢十郎。いずれは、お前が決着つけなきゃならない事だって判ってるんだろう?」
八樹は思わず彼らを振り返った。
梧桐はこちらに背を向けていたが、クロ助の目は、はっきりと八樹を見ていた。

(…俺に)

わざと聞こえるように言ったのだ、と思った。
なんのためかはわからないが、明らかに意図して。

「―――じゃあね」
クロ助はふいと視線を外すと、それきり振り向きもせず、船に乗り込んだ。

 

 

「…行くの?」

八樹は言った。
唇が乾いて、声が出し辛かった。
梧桐は長い指で、誤魔化すように八樹の髪を撫でた。
「一緒に来るか?」

冗談とも本気ともつかない口調だった。君がそう言うなら、と八樹は答えようとしたが、言葉がなぜか咽喉につかえて出なかった。八樹はかすかに息をひいた。
すると人の手を逃れた鳥のように、するりと別の科白が出た。

「―――行かない」

梧桐はそうか、と言って八樹の髪を軽く掻き回した。声音から感情は窺えない。八樹は目を開いた。額に載せられたままの冷えた指の間から、逆光で少しだけ陰になった彼の表情が見えた。
梧桐は笑っていた。

八樹はまた瞳を閉じた。傾きかけた太陽が、瞼の裏に白く光る軌跡を残した。

 

光の輪がゆらりと融 [と] けて消える、
その感覚が涙に似ていた。

«back