満月

どこかで鳥の声が響いた。
周囲は一面の蒼い闇で、音の出所は判然としない。

―――どこにいるの。

問うた言葉は唇の端から、冷えた夜気に吸い込まれた。
見渡すと、闇の中にほつりと明るい場所があった。

(…だれ?)
光は人のかたちを成しているように見えた。
そちらへ踏み出すと、すいと遠のく。

(待って。どこへ行くの)

ふいに怖くなる。
あのひとがいなくなったら、自分はこの暗闇にひとりきりだ。
追う足を速めた。だが光は蜃気楼のごとく、さらに遠ざかった。
長い髪の人影。それはゆらゆらと、海底に沈むように離れてゆく。
待って、と叫んだ声は、届く前に細かな水泡となってはじけた。

行かないで。
一人にしないで。

―――かあさん。

 

蒼白い光が急速に近づき、目の前できれいな円になった。
「………」
一度瞬いてみると、膜が剥げるように月は金の色に変わった。
八樹はベッドに転がったまま、春霞に煙る満月をしばらく眺めた。
(…夢か)

起き上がって窓を開けると、湿った空気が流れ込んだ。少しばかり肌寒かったが、八樹は窓枠に肘をついて表を覗いた。部屋のほぼ真下に、父が先日適当に手入れした植え込みがあった。薄紅の花がいっぱいについた隙間から、不恰好に張り出した枝が目立つ。八樹は思わず苦笑した。

(…そういえば…)

昔はよくこの窓から、外を見つつ父の帰りを待った。父の仕事が忙しくなると、だんだんと待ち時間は長くなった。その頃から、母はあまり笑わなくなった気がする。

八樹は軽く頭を振った。
(止めとこう)

そうして改めて横になったが、一向に眠気がさして来ない。考え出すと眠れなくなるのはいつものことで、幾度か寝返りを打った後、八樹は諦めて部屋の明かりを点けた。

時計は午前三時を指していた。

 

箪笥から引っ張り出したシャツとジーンズに着替えて表に出た。薄手のシャツ一枚では寒いかと思ったが、湿り気を帯びているだけで、気温自体はさほど低くはない。
八樹は月の見える方角へ、ぶらぶらと歩き出した。目を凝らすと、黄金の周囲に赤錆じみた色の輪がかかっているのがわかった。月に輪がかかるのは雨だったか、晴れだったか…。

とりとめない考えを巡らせながら、十分ほども歩いたろうか。
ぱしゃん、と水の撥ねる音が耳を打った。

目を上げると、道路を一本隔てた川面に、銀の鱗が沈むところだった。
八樹はほそい道を渡り、川のすぐ脇の歩道を流れに沿って下った。少し先に橋があるのを憶えていたからだ。何年か前、一度辿った道筋だった。

(…あれ?)

その橋の欄干の上に、誰か座っていた。
月を見上げているようだ。
向こう側に街灯がひとつあるせいで、顔は判らない。ラインの綺麗な横顔の、シルエットだけが見えた。

あちこち髪がハネた頭に、見覚えがあるような気がしたのだが。
(まさかね…)
こんな時間に、と考え直して、八樹はさして長くもないその橋を渡った。反対側のアスファルトの路面を踏んだ瞬間、その人物は大きなくしゃみをした。そして何が悔しいのか、小声でくそ、と悪態をついた。

「………」
八樹は橋の上を三歩ほど戻り、欄干の脇から彼の顔を覗いた。

「梧桐君?」
「うおっ!」
梧桐は本気で驚いたらしく、危うく橋桁から落ちそうになった。
「あ、危ない!」
八樹が慌てて襟首をつかまえて引き上げると、彼は咳き込みながらオレは猫か、と文句を言った。
「猫よりは虎かライオンだと思うけど…」

いつだったか、月に向かって吠える虎だか狼だかの話を読んだ記憶がある。
今の情景は、何やらそれに似ていた。

「月に吠えるふしあわせな犬の詩なら朔太郎だ」
「虎だったよ。何かを嘆いて月に吠えるんだ」
それは知らん、と不機嫌に言って、梧桐はじろりと八樹を睨んだ。

「なんだ貴様は。こんな時間に何をしている」
「何って…散歩」
君こそ、と言い返しかけて八樹は、梧桐の印象が普段と違う原因に気づいた。
「…ああ。何かいつもと違うと思ったら、ツノが無いせいか」
「なんだ、ツノというのは。オレは卑怯で外道だが鬼ではない」
「ふだんは前髪固めてるじゃない」

言いながら、八樹は梧桐とは逆向きに欄干に腰掛けた。
「ああ、あの方がカッコイイからな」
八樹はひょいと彼の横顔を見たが、どっちがカッコイイかという判断はつきかねた。
「…そう?」
「そう言われたのだ」
「誰に?」
「うるさい」

梧桐はそっぽを向いた。
伊織に言われた、とかではなさそうだ。思い当たる少女がひとり同じ中学にいたが、訊ねる前に少し離れた場所でまた水音がした。

「さっきも魚が跳ねたぞ」
「うん。見た」
梧桐は川面の上で幾度か足を振った。その拍子に肩が触れた。
「おかげで靴が濡れた」
触れた肩もわずかに湿っているのが、うすい生地を通して判った。
「寒くない?」
「そんなペラペラの服一枚の奴に言われる筋合いはない」

八樹は白いシャツの裾を、指先で弄んだ。
濡れて寒くないのか、と訊いたつもりだったのだが、どうやら取り違えられたらしい。
「俺なら平気だよ。もう三月も半ばだし…」

卒業式も一昨日終わった。じきに春休みだ。
「…あ、そういえばローヤーさんて、どこに進学したの?」
梧桐はしばらく黙った。どうも虫の居所が悪そうだ。話す気がないのだろう、と八樹が諦めかけた時、

「―――あいつは昨日、アメリカへ帰った」

八樹は一瞬呆気にとられた。
「…え? 嘘」
「オレは外道だが、嘘はあまり言わんぞ」

卒業式は一昨日のことだったのだ。
(…昨日…帰った?)

 

 

―――八樹君、これからもセージのこと宜しくね。

明稜の女生徒たちから贈られた花束を大量に抱えたクリフは、気軽な調子で言った。
「は? …はあ」
何を改まって、と八樹は思ったが、一応承諾ともとれる返事をした。
「ボクはこれでお別れだけど、君はあと一年セージと一緒だからねえ。気の毒だけど、セージと同じ年度に生まれたのが不運と思ってあきらめて…」

クリフがアメリカ人とは思えない流暢な日本語でまくしたてている所へ、背後からぬっと梧桐が現れた。
「うわ~! セージ!」
「きさまという奴は、最後の最後まで―――!」

花を撒き散らしながら校庭を走り抜け、クリフは梧桐の鼻先で、迎えの車に飛び乗った。正門前で待っていた青木が、慌てて車に駆け寄った。
「クリフさん!」
「速太君、元気でね」
クリフは後部座席から手を伸ばし、青木の頭をぽんと叩いた。青木の両目に、見る間に大粒の涙が溜まった。
「クリフさん…! 今までありがとうございました!」

クリフは笑った。
「速太君、大げさ! もう会えないわけじゃないんだから」
そして梧桐を振り仰いだ。
「じゃあね、セージ」
「ふん」
ばか者、と梧桐が呟くのと、車のエンジンがかかるのが同時だった。
クリフは最後に手に残った花束を、こちらに向かって振った。

「じゃあみんな、またね!」

舞い散る極彩色の花々と、それにも増してあざやかな彼の金色の髪に、春先の陽光が降り注いで眩しく目を射た。

 

 

「…だって」
式の時は全然普段と変わらなかったのに、と八樹は返した。だから、彼はどこか国内の大学に進学するものと、疑いもなく考えていた。
「あいつが日本を離れたくないと、泣いて騒ぐとでも思ったか?」
「………」
八樹は答えに詰まった。そういうわけではない。
ただ、彼が梧桐の傍にいるのは、ほんの二年であまりにも当然のことになっていた。
「考えもしなかった」
「クリフはアメリカン・ローヤー・カンパニーの跡取りだ。初めから…三年という約束だった」

八樹は相槌を打つでもなく、川上に映る月の影を見ていた。
梧桐の言葉は、どこか自身に言い聞かせるような響きを持っていた。

「三年前の冬、この近くで北高の連中に絡まれていた金髪のガキを助けた」
「北高…」
たちの悪い生徒が多いので有名だった、付近の公立高校だ。半ば予想していたが、中学の頃から高校生を相手にしていたのかと八樹は呆れた。
「そいつらを追い払うと、金髪野郎は何のつもりかこのオレに金を払おうとした。頭にきたからそいつも殴った。それがクリフだ」

「…君って…」
助けておいて突き放すのが趣味なの? と八樹は余程言ってやろうかと思ったが、梧桐が再び口を切る方が早かった。
「あいつはオレの制服の襟章を見て、一学年下とわかると進学先の高校をしつこく訊ねてきた」
「なんて言ったの?」

「明稜高校に入って明稜帝になると言ってやった」

 

(ああ)
たったそれだけのことで、と思う一方で、心のどこかでそうか、と納得していた。
(彼は手を伸ばしたのか)

差し伸べられた光に。
自分が、目を覆って逃げ出そうとしたのとは逆に、自ら手を伸ばしたのだ。
(…俺は)

夢の中ですら、追う事はできないのに。

「…彼は強いね」
ささやくような微かな言葉を、梧桐は聞きとめた。
「ん? あいつは今でもてんで弱いぞ。本の背表紙が頭に刺さるくらい弱いぞ」
「そういう意味じゃなくてさ」
風が出てきたのか、水面の月がゆらめいた。波間に輝く黄金は、彼の髪の色によく似ていた。

梧桐はしばしの沈黙の後、うらやましいか、などと尋ねた。
「おまえが欲しかったのは、あいつのような強さだろう」
「…そうかもしれない」

誰かを信じる強さ。
信じて、振り払われるかもしれないその手を伸ばす強さ。

 

「―――でも、うらやましいとは思わない」
梧桐は笑ったようだった。

「そうか」
「俺には、俺にしか手に入れられない強さがあると思う。だから誰かを羨んだり、妬んだりするのはもうやめたんだ」
「…ふん」
梧桐は肘で八樹の背中を小突いた。
「言うようになったではないか」
そしてそれきり沈黙した。

「梧桐君?」
振り向こうとすると、今度は肩で背を押された。
「ばか者。いちいち人の顔をのぞくな」
声は平静だったが、平静すぎる所がどこか取り繕ったような印象を与えた。

「振り返ったら殺す」
八樹は再び中空に視線を投げながら、月に吠えるあの虎が、何を嘆いていたのか思い出そうとした。
「…梧桐君」
風が強くなる。川辺の並木が、ざわざわと鳴った。

梧桐は答えない。
「淋しいんだったら、泣き言くらい聞くのに」
梧桐はふんと鼻を鳴らした。少しだけ、冷えた肩が寄せられたように感じられたが、もしかしたら気のせいかもしれない。八樹はかすかに笑った。

「…意地っ張り」

 

東の空に、わずかな光明が射した。
何処 [いずこ] とも知れぬ薄闇の下、また遠くで鳥が哭いた。

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