1/2の永遠
落ちかかる夕陽の色が柘榴 [ざくろ] に似ている。
校庭は、日中の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
柘榴色の太陽に、闇が迫る時刻だ。夜はその帳 [とばり] の内に、すでに幾つかの星を抱いていた。
中に、ひときわ輝く星が見える。
(金星かな)
それを横目に眺めながら、八樹宗長は木刀を抱え直し、わずかに歩調を早めた。
「…!」
そうして校庭の角を曲がった時、十メートルばかり先を行く人影が目に入った。逆光になっていたが、シルエットで誰か判った。嫌と言うほど見てきた背中だった。
「梧桐君?」
人影が足を止め、振り返る。
横顔が灼けた空の朱を映して眩しい。八樹は瞳を細めた。
「なんだ、八樹。今帰りか?」
低いが良く通る声で、梧桐勢十郎は尋ねた。
昼間の球技大会のことは、もう忘れたような顔をしている。
そう思うと、奇妙な安堵が胸に滲んだ。
「うん。剣道場に寄ってたからね」
部活は休みだったのだが、なんとなく足が向いた。
(…いや)
少し、ひとりになりたかったのかも知れない。
「なんだ。剣道場に閉じこもって、武実を闇討ちする準備でもしていたか?」
梧桐はにやにや笑って、八樹の台詞を混ぜっ返した。
「…梧桐君…もうその事は…・」
───それに、
言い返そうとした言葉が、束の間途切れた。
胸の奥で、誰かの声が小さな棘となって疼いた。
───それに、八樹は前科があるし。
「…忘れろって方が無理か」
八樹の呟きを、梧桐のいかにも楽しげな声が遮った。
「やるならオレも手伝ってやるぞ!」
「…は?」
梧桐は準備運動のつもりなのか、両肩をぐるぐる回している。
武実恵二は、今日はもう帰宅しているだろうが、梧桐なら自宅に殴り込みくらい掛けかねない。
「ちょっと…君には関係…」
「あいつは気に入らん」
言って、梧桐は振り回していた腕を組んだ。
もう、先刻までのからかうような雰囲気は失せている。
「武実は、正々堂々とやると言ったお前の誇りを傷つけた」
「───」
八樹の視線の先で、梧桐の肩口から白々と月が昇る。その様を見るともなく見ながら、しばらくの間、言葉が出なかった。
「……俺…じゃなくて、俺の『誇り』?」
八樹は微かに笑った。
梧桐の目にまた、普段の不敵な色が浮いた。
「当然だ。お前があの程度で傷つくようなタマか」
そして、くるりと踵を返す。
「ひどい言い様だなぁ」
梧桐の背を追って歩き出しながら、八樹は彼の手に、いつも行き帰りに持っている分厚い本が無いことに気づいた。
「梧桐君、今まで生徒会?」
梧桐は振り返らない。歩調も変えずに、
「オレは色々忙しいのだ」
と言った。
「…ほかの人は? なんかいつも持ってる本もないみたいだけど。…一度、帰ったの?」
梧桐の肩が、ぴくりと動いた。
「君、もしかして心配して来てくれ…」
「ふざけるなーっ! オレの心は一生オレのものだ! そう簡単に配ってたまるかー!!」
八樹の声を、梧桐が大音声で遮った。
(心配って…そういう意味じゃないと思うけど…)
とツッコミを入れるのがためらわれるような憤怒の形相で、梧桐は足音も荒く八樹に迫ってきた。
「だいたい貴様は下僕の分際で…」
掴みかかろうとして伸ばした右手を、しかし梧桐は止めた。
八樹は目を伏せて、梧桐の意外に繊細な造りの指先を見た。
そして彼の瞳に、逡巡が幽かに過 [よぎ] るのを見た。
「…つまらん憶測をするな!」
再びこちらに背を向けて、梧桐は途切れた言葉を不機嫌そうに継いだ。
八樹は、彼の手が掠めるように触れた襟元を、軽く指で辿ってみた。
梧桐は八樹に対しては、不自然なほど暴力を振るわない。彼が八樹に手を上げたのは、あの闇討ち事件の時、ただ一度きりだった。
多分、知っているからだろう、と八樹は思う。
(人に触れられるのは、本当はあまり好きじゃない)
普段は忘れている、傷つけられた記憶。
他人の言葉に悪意しか感じられずにいた頃の記憶を、それは時々どうしようもなく思い出させるから。
(…でも)
「梧桐君。俺は、大丈夫だよ」
梧桐の背に声をかける。
そうすると、本当に大丈夫だという気がした。
今の自分は、あの頃とは違う。
「俺は確かに間違ったと思うし、反省もしたけど…後悔したことはない。自分で選んだことだから。今回の件なんて、大したことじゃない」
───ただほんの一瞬思い出した、それだけのことだ。
「わかっている」
応える梧桐の声音から、感情は読み取れない。
「だが、どうしようもなくなったら、その時はオレに言え」
どうしようもなくなっても、自分は彼にだけは決して言わないだろう、と八樹は思ったが、
「そうするよ」
と答えた。そして少し考えてから、こう付け加えた。
「多分」
「多分?」
梧桐が振り向いた。
「そうか」
宵闇が彼の姿に影を落として、表情は見えない。
けれど、梧桐は今までに見たことのない顔で笑っている。
そんな気がした。
「───…君は、知ってるのかな…」
声にならないほど小さく、八樹は呟いた。
昔から、触れてくる手にどこかで怯えていたこと。
敵意のある目を怖れていたこと。
(たとえば、握りのクセとか)
自分でさえ気づかないような、そんな些細なつまらないこと。
そんな事を憶えているのは、
(君だけなんだ、梧桐君)
八樹は頭上に目を移した。
蒼白い月光を映す雲が速い。
───くやしいから、そんなこと一生君には言わないけどね。
「何をしとるか!帰るぞ!」
立ち止まると、前方から梧桐の怒声が飛んだ。けれど、響きは明るい。八樹は足を早めて梧桐を追った。
「それにしても、今日の球技大会は盛り上がったなー。これもオレの企画力のなせる業だな!次の企画は『死闘スペクタクル格闘大会』か『熱戦ファンタジック武術大会』にしようと思うが、お前どっちがいい?」
「……それ、どこか違うの?」
月が、彼らの影をくっきりと地上に落としている。空を流れる風は乾いて、
明日の晴天を、約束しているようだった。