祈り

抜けるように青い空から、煉瓦敷の中庭に光が降っていた。あちこちで渦を描く赤と茶の模様が綺麗で、伊織は入学した当初からこの庭と、その先にある図書館に足繁く通っていた。
周囲の並木は常緑のものではなかったから、今はすっかり葉が落ちて、細かい血管のような枝を晒している。だが、それはそれで風情があった。

中庭を半分ほど進んだところで、伊織は図書館の入口から背の高い人影が出てくるのに気づいた。
見知った顔だが、こんな場所で出くわすのは少しばかり意外な相手だった。

 

「八樹先輩」

伊織が声をかけると、八樹はこちらを見て笑顔になった。
「ああ、伊織さん。調べもの?」
「違いますけど…ここ、好きだからよく来るんです。先輩は何か用があったんですか?」
八樹は頷いて、
「やっぱり体育科から一般受験って色々大変みたいだね」
と笑った。伊織はちょっと驚いた。
「一般で受けるんですか? どこの大学ですか?」
内緒、と八樹は返した。

「落っこちたら恥ずかしいから。絶対梧桐君にからかわれるしさ」
伊織は思わず微笑した。
「私はからかわないわ」
「ありがとう」

八樹はそして、もう少し合格率が上がったら教えるよ、と言った。
わずかに伏せられた瞳は、今までと変わらない黒く深い色だったけれど、

(…綺麗な目)

彼に初めて会った時に伊織が見た昏い色彩は、もうそこには無かった。

 

借りていた本を返し、伊織は図書館を後にした。
彼女が次に借りるつもりでいた本は二冊とも貸し出し中で、仕方なくカウンタで予約だけ入れてきた。

腕時計を見ると、昼休みの終わりまではまだいくらか間があった。伊織は裏門の所まで歩いた。門の近くの木々は常緑樹で、いつもこの辺りには濃い影が落ちている。舗道の脇には芝生とちょっとした植え込みがあり、彼女の記憶違いでなければフランス庭園だかスペイン庭園だか、御幸あたりが喜びそうな名前がついていた。

 

その植え込みの陰から、人の足が二本、にゅっと突き出していた。

そっと覗くと、梧桐が芝の上に寝転がって目を閉じていた。今日は意外な所で意外な人に会う日だ、と考えながら、伊織は彼に声を掛けた。

「セージ、どうしたの?」
梧桐は目を開いて、緑の向こうから覗いている幼なじみの顔を認めた。
「ああ、いい天気だったからな。本当は図書館に用があったのだが、司書が『中国医学の誕生』は貸し出し中だなどとぬかしおって、時間が余った」
「私も言われたわ。何だか最近、利用者が増えたみたい」
「三年はそろそろ追い込みだからな」

頭上の緑から散り落ちた葉を、梧桐は胸の上から払った。
「二年でも、もう勉強始めてる人もいるみたいよ。さっき図書館の入口で、八樹先輩に会ったの」
伊織は植え込みの中にぱらぱらとこぼれている、針のようなかたちをした枯葉を眺めた。

「八樹に?」
「大学は一般受験なんですって」
ほう、と梧桐は言って、両腕を枕にした。
「一般か。脳ミソも筋肉のくせに」
「聞いていなかったの?」
知らんな、と返し、そして梧桐は少し笑った。

「いちいちオレに断る筋もないだろう。あいつはオレの人形ではない」

飛べない哀れな鳥でもない。
自分の手で、籠の扉を開いて。
自身の意志でどこへでも行ける。
セージ、と伊織は言った。

「寂しい?」
梧桐は目を細めた。真上には初冬の眩しい青。
その光の向こう、遠くエーテルに満ちた宙がある。

「いや」

梧桐は微笑した。伊織は彼の脇の芝生に腰を下ろした。
「私、はじめてあの人に会った時、あなたと同じ目をしていると思ったの」
ああ、と梧桐は応えた。
「オレもそう思った」

 

今の自分ではなく、過去の自分。ずっと昔、己を脅かす存在に抵抗する術も持たず、いつか自らの足で立つ未来など想像も出来ず、ただひたすら耐えていた頃。耐えるという状況に慣れすぎて、自分が耐えている事自体忘れかけていた頃、たぶん梧桐も、ああいう光の見えない瞳をしていた。

最初に手を伸ばしたのは、
八樹ではなく、遠い日の自身の幻影を救うため。

───ああ、きっとそうなのだろう。

 

「伊織」
伊織は梧桐を振り返った。長い髪が、彼の顔にぼんやりとした陰を作った。
「オレは間違っていたと思うか?」
見つめる視線の先で、彼女の肩を掠めて白い雲がゆるゆると流れた。
伊織はわからない、と言った。そうしてふわりと笑んだ。
「でも、私は今のあの人がとても好きだわ」
「そうか」
答えて、梧桐も笑った。
「オレもだ」

八樹はもう、かつての自分と同じ目をしない。
ならば自分はおそらく、間違ってはいなかったのだ。

 

梧桐はまた目を瞑った。瞼の裏に青く、光が残る。
彼がこの先ひとりで歩いていく、その道が同じ光に満たされていればいい。

梧桐は空を埋めた青の果て、遠いエーテルの海に祈った。

«back next»