時には汚れない花のように
重く垂れ込めた雲から最初の雪が舞い落ちたのは、その日の午後早くだった。初めのうちはまばらにぱらつく程度だったそれは、一時間も経たぬ間に本格的に降り出し、外界を寒々とした無彩色に変えた。
八樹は窓を開けた。肩が痺れるような、冴えた風が吹き込んだ。
「───寒い…」
呟く舌先から吐息が白く凍てついた。しかし八樹は、そのまましばらく窓を開け放っていた。真冬の澄んだ空気の匂いは、昔から好きだった。
(積もりそうだな)
一昨日の夜降った雪が、根雪となって残っている。すでに部屋の真下の地面は白く覆われていた。ひとひらの雪片が、ひらりと頬に降りかかって溶けた。その冷たさが快かった。
玄関の鍵が開く音が聞こえたのはその時だった。八樹は時計を見た。まだ四時を回ったばかりだ。
「…父さん?」
八樹は自室のドアを開け、階段口から下を覗いた。途端に開いた窓から玄関まで、音を立てて冷気が駆け下りた。父は驚いたように小さく声を立て、慌てて玄関の扉を閉めた。
「何だ、寒いな」
「あ、ごめん。窓開けてた」
八樹は部屋のドアを閉めた。指先にかすかな空気の抵抗が残った。
「早かったね」
「早めに切り上げて来た」
父は言って、ぼそぼそと雪も降ってきたしな、などと付け加えた。
それは妙に言い訳じみた台詞に思えたが、八樹はそう、とだけ答えた。
「本橋さんて人から電話あったよ。折り返し連絡下さいって」
「そうか」
用件を告げてしまうとそこで会話は途切れた。八樹は勉強があるから、と部屋に引っ込んだ。父は何か言いたげに一瞬こちらを見たが、結局また、そうか、と呟いた。
雪の吹き込みはじめた窓を閉めようとして、八樹は窓外の白の中にあざやかな桃色がひらめいているのに気づいた。白い傘に、ピンク色の上着。八樹とさほど年の変わらない少女のようだが、その後ろ姿に見覚えはなかった。彼女はちらちらと周囲を窺ってから、リボンのかかった小さな包みを、そっと八樹の家のポストに入れた。そして逃げるように立ち去った。
(…何だろう)
と考えてから、今日が自分の誕生日だったことを思い出した。
八樹は机の前に掛けたカレンダーを見やった。バレンタインの前日だからフライングの可能性もあるが、それで日曜に雪の中を、わざわざ家まで来るのは変だ。
「───何なんだろうなあ…」
今度は声に出して呟いた。去年も似たようなことがあったが、八樹の誕生日を知っているのは昔から付き合いのある梧桐と伊織、それに剣道部の部員たちくらいのものだ。家庭の問題もあって自宅に他人を招くことなどまずなかったから、駅からここまでの正確な道順を知る者もほとんどいない。八樹の家を訪ねようと思ったら、学校の住所録で番地を辿るしかない筈なのだ。
それでもどこからか情報を得て、ああして家までやって来る。
(…鬱陶しいな)
そういうのがいじらしいとでも思っているのだろうか。彼女らは八樹の見てくれから勝手にイメージをふくらます事は出来ても、見も知らない人間に誕生日を調べられて自宅に押し掛けられた相手がどんな気分になるか、といったことには想像が及ばないらしい。
八樹は苛ついた気持ちを締め出すように、ぴしゃりとサッシを閉めた。
そして再び椅子に座って鉛筆を手に取ってから、ああ、そうか、と思う。
(…誕生日…)
だから父は早く戻って来たのか。
そう考えると暖かいような、そのくせ少し煩わしいような、奇妙な気分になった。八樹はひとつ息をつき、英語のノートを開いた。
ぱしゃ、と窓のすぐ下で湿った音が響いたのは、午後六時が近づく頃だった。
「…?」
雪はすでに止んでいた。わずかに開いたカーテンの隙間から、真円に近い月が見えた。
見ているとその月の上に、今度はかなり派手な音を立てて白いものがぶつかった。雪の礫 [つぶて] だ。誰かがこの窓に向かって雪を投げている。
八樹は窓を開けて外を覗いた。部屋の灯りが積もった白銀の色を照らして、戸外の様子は思いのほかはっきりと見て取れた。窓の下に立つ人物が、八樹の姿を認めて片手を振った。
「! 梧桐君」
梧桐は下りて来い、と身振りで示した。ちょっと待って、と八樹は言い置いて窓を閉め、ハンガーに掛けてあったコートを取って階下へ降りた。
「宗長、どうした?」
居間から父が顔を出した。
「ちょっと友達が表に来てて」
八樹は玄関先で靴を履きながら答えた。すぐ戻るから、と言ってドアを開ける。外は一面の銀世界だった。まだ誰も通った跡のない新雪を踏んで、八樹は家の脇に回った。
「梧桐君、急にどうしたの」
八樹の部屋の真下の壁に寄りかかって月を眺めていたらしい梧桐は、そう声をかけると顔を上げた。
「通りすがりだ。近くまで来たのでな」
八樹は梧桐の足元を見た。そこから逆向きに足跡が延びて、家の西側の囲いに続いていた。
玄関の近くに痕跡がないはずだ。
「…通りすがってもいいけど、人の家の塀乗り越えて入って来ないでくれよ」
八樹が文句を言うと、彼は笑った。
「男が細かいことを気にするな」
そして、いい月夜だな、と言った。八樹は十三夜の月を見上げた。雪が降ったせいか空気が澄んで、確かに普段より綺麗に見える。まあ、と八樹が曖昧に答えると、梧桐は身を乗り出した。
「お前、望遠鏡を持っていたろう」
「え、まさか月見るために来たわけ?」
この積雪の中を、と八樹は呆れたがそこまでは言わなかった。
「良いではないか。どうせお前、今年も一人きりで侘びしく誕生日を過ごしていたのであろう」
「一人じゃないよ。今日は父さんもいるから」
そう言うと、梧桐は驚いたらしかった。
「なに? 親父がいるのか! あの去年もその前もさらにその前も、お前のことなどほったらかしだった親父が!」
梧桐が居間まで届きそうな大声で言ったので、八樹は慌てた。
「…いや…何もそこまで言わなくても…」
梧桐は少し考えていたが、ふうん、と唸ると、
「ならオレは帰る」
と言った。
「せっかく親父がいるのなら、この機会に親子の親睦を深めるがいい。邪魔をしたな」
「ええ? 梧桐君、ちょっと待ってよ!」
言うだけ言ってさっさと背を向けた梧桐の腕を、八樹は咄嗟に引いた。
慌てていたから、力の加減を誤った。
「うわ!」
梧桐がバランスを崩したのに引きずられて、八樹も雪の上にひっくり返った。積もった雪の表面の結晶が空気中に舞い上がって、白い霧になった。
「…ばか者! そんな力任せに引っ張る奴があるか!」
一拍早く起き上がった梧桐は、そう怒鳴って八樹の頭に雪玉をぶつけた。
「ごめん。つい…」
八樹は雪の上に座り込んで、上着についた白い結晶を払い落とした。ついで済むか、と言い募る梧桐の足元を見ると、雪の上に彼の顔型がきれいに残っていた。八樹は吹き出した。
「何を笑っとるか───!」
笑いの止まらない八樹に、梧桐はまた雪礫を投げた。が、しばらくすると自分も笑い出した。
せっかく来たんだから寄っていったら、と八樹は言った。梧桐は白いコートの裾を叩きながら頷いた。玄関のドアを開けると、父が居間から廊下に出てきた。
「宗長、友達か?」
「うん」
梧桐君、と八樹が紹介し終わらないうちに、梧桐は自ら
「ほー、お前が八樹のオヤジか! オレは明稜高校二十六代目生徒会長の梧桐勢十郎だ!」
「わあ! ちょ、ちょっと梧桐君!」
とても友人の親に対する態度ではない。
八樹は思わず父の顔色を窺ったが、どういうわけか父は笑って、八樹に向かって
「面白い子だね」
などと言った。
「梧桐君、大したおもてなしも出来ないが、ゆっくりしていってくれ」
「気にするな。オレは月を見に来ただけだ」
梧桐はさっさと靴を脱いで、八樹よりも先に階段を上った。
八樹はそれを見送ってから、おそるおそる居間の入口に立った。
「…あの、父さん。ごめん」
父はソファに座り直し、こちらに背を向けて夕刊を広げた。
「何がだ?」
「いや、あの…梧桐君ていつもあんな風だから誤解されるんだけど…」
父は笑って、いい友達じゃないか、と言った。
「去年もその前もさらにその前も、誕生日に一緒に居てくれたんだろう?」
やはり先程の梧桐の大声は、ここまで響いていたらしい。
「…まあ…学校同じだから…」
けれどクラスはずっと別だった。彼は八樹が一人なのを知っていて、意図して一緒にいてくれたのだ。バレンタインの前の日だから覚えていたとか、月が見たかったからとか、いちいちつまらない理由をつけて。
父はそうか、と言って、
「いい子だね、彼は」
うん、と八樹は応えた。
「そうだよ。…大切な友達なんだ」
八樹が去年の初夏に暴力事件を起こした時、父は泣いて詫びた。八樹は父の気持ちも、父が詫びる理由も解らず、最後まで一言も発する事が出来なかった。あれから溝は埋まることはなく、
「…父さん」
互いに打ち解けることはもう二度と無いのだろうと思っていた。
「今日は、忙しいのに家にいてくれてありがとう」
父は背を向けたまま、うん、と言った。少しだけ、笑ったような気配。
父が振り返ってくれればいいのに、と八樹は思う。
───きっと自分は今、うまく笑えているだろう。
先に二階へ上がったものと思っていた梧桐は、階段の中ほどに座って八樹を待っていた。
「遅いぞ」
ごめん、と八樹が言うと、梧桐は立ち上がった。
「話は終わったのか?」
「うん」
「人の良さそうな親父だな」
梧桐は階段を二、三段上ったところで八樹を振り返った。
「そうかな」
「オレの親父は暴力ジジイだったからなー。だから暴力的でない親父は皆良い親父に見えるのだ」
何でもないことのように、梧桐はそう言った。八樹は階段を上りかけた所で立ち止まった。
「…ああ、そうなんだ」
その言葉は梧桐にとってはとても重いものだ、と八樹は感じた。彼の強さの根底にある、かつて自分に似ているという印象を抱かせた、
───それは多分、同じ傷。
「驚いたか?」
「多少は」
けれど、それを深く追求しようという気は起こらなかった。
「なんだ。どうでも良さそうだな」
どうでもいいよ、と八樹は応えた。
父親がどうであれ、
心の底の傷が何であれ、
「…だって、君は君だから」
梧桐はこちらに向き直った。
そうして、どこかせつないような表情で笑った。
「そうか」
彼は階段の上から手を伸ばして、何を思ったか八樹の髪をくしゃくしゃに引っかき回した。
「ちょっ…何するんだよ、梧桐君! 痛いじゃないか!」
梧桐は声を立てて笑うと、二階の廊下まで駆け上がった。
「さっさと来い。月は毎年遠ざかっているそうだぞ」
今のうちに見ておかないとそのうちなくなるかも知れん、と彼はまた笑った。
月の遠ざかる速度など、年に数センチ程度のものだ。なくなるわけはないのだが、八樹はそうだね、と答えて階段を上った。
あの望遠鏡で、二人でまた月を見よう。
昔より、ほんの少し遠い月を。
月は遠のいても、
───僕らは、あの頃よりも近い距離で。