パノラマ

投げ出した足の先を、枯葉が風に乗ってくるくると転がっていった。
木枯らし、というやつだろうか。もう冬が近いのか、近頃空気が急に冷たくなった。

半屋は煙草の煙を天に向かって吐いた。それはすぐに曇り空の色に溶け、所在もわからなくなった。半屋は揉み消した吸い殻を灰皿代わりのバケツに投げ捨て、再びマットの上に引っくり返った。目を閉じた直後、コンクリートを踏む足音が聞こえた。

(…ミユキか?)
それとも梧桐だろうか。
他に半屋のいるこの場所を訪れる物好きなどそうは居ないはずだが、どうもどちらの気配とも違う。

 

「あ、ホントにこんな所でサボってる。寒くない?」
「!」
その声に、半屋は跳ね起きた。
咄嗟 [とっさ] に体重をかけた左腕に鈍い痛みが走り、思わず舌打ちする。
足音の主は、半屋にとっては思いもかけない人物だった。

「ちゃんと授業出ないと、また進級危なくなるよ」
八樹は作り物めいた綺麗な顔に笑みを浮かべ、まるで気遣うかのような台詞を吐いた。
「ンだ、てめェは。何しに来たんだよ」

ほとんど習性でそう凄みつつ、半屋は彼の手元を見た。また喧嘩でも売りに来たのかと思ったが、八樹は武器を持っていなかった。半屋の視線に気づいてか、八樹は苦笑混じりに
「ひどいな。別に君と争う気なんかないよ」

「だったら何だ」
半屋はまた寝転がりながら尋ねた。そんな気分悪そうにしなくたって、と八樹は文句を言ったが、二条の一件で負った腕の傷が痛んで、半屋はここ数日まともに眠っていない。元凶に丸腰で目の前をうろつかれて、気分のいいはずがなかった。

それを知ってか知らずか、八樹は転がった半屋の隣りにちゃっかり腰を下ろした。
「…勝手に座んな、てめえ!」
「だってここの方があったかそうだったから」
「………」
この際腕が痛もうが相手が丸腰だろうが二、三発殴ってやろうか、と半屋が切れかかった時、八樹は根本から気勢を殺 [そ] ぐような事を言った。

「謝りに来たんだ、俺」

 

「……あ?」
返した声は、自分でも間が抜けていたと思う。揶揄 [やゆ] されるかと構えたが、八樹は真顔のまま、
「怪我させてごめん」
と言った。
「…何言ってんだ、お前」

確かに半屋は八樹に腹を立てていたが、それは元々彼が気に入らないからだ。八樹が謝罪する理由が思いつかない。経緯はどうあれ、八樹が挑んだ勝負を自分は受けたのだ。その上で負った傷のことで、八樹に詫びられる筋合いはない。

といった考えを半屋は極めて簡潔に、
「バカか」
の一言に集約した。

「バカはないだろ。殴られるの覚悟で来たのに」
そう返しながらも、半屋が暴力を振るう気配がないと判ると、八樹はどこか安心したようだった。

「大体、ワビ入れに来んだったら辻斬りの時に来んのがスジだろーが」
「ああ、それもそうか」
が、言ってから八樹は少し考え込む様子を見せた。
「…あ、でもそれは無理」
「あぁ?!」
気色ばむ半屋が目に入らないような顔で、八樹は平然と
「俺、あの頃君のこと嫌いだったからさ」
などと言った。

「な…」

やはりこいつは遠回しに喧嘩をふっかけに来たのではないだろうか。半屋は八樹の腹のうちを探ろうと表情を覗いたが、光を映さない瞳から感情は読めなかった。八樹は目を伏せた。すると影が濃くなった。

「たぶん、君に嫉妬してたんだと思うよ」
自分の事だというのに、八樹はまるで赤の他人の心を量るような言い方をした。だが、彼の人形じみた無機質な風貌に、その台詞は奇妙に馴染んでいた。
「君は俺より強かったから」

「…勝ったのはてめえだ」
苦々しい思いで、半屋は呟いた。頭に来るが、確かに八樹は強い。一対一の勝負で自分を負かしたのは梧桐と、この男以外にいないのだ。
「そうじゃないよ。気持ちの問題」
半屋はマットに横たわったまま、下から八樹を見上げた。
「半屋君、気持ちの上で誰かに負けたことなんてないだろ?」

 

八樹は実際の勝敗よりも、心の問題にこだわる。場合によっては、自分が勝った時でさえ、まるで敗北したかのような顔をする。半屋にはそれがさっぱり解らない。
「気持ちの上がどーした。気持ちがどうだろうが勝ちは勝ちだし、負けは負けだろ」

だからそう答えた。八樹は一瞬呆気にとられた表情でこちらを見つめ、そしてちょっと笑った。
「君はいいね」

何がだ、と半屋は思ったが、いい加減話すのも面倒だったから黙った。八樹もそれ以上会話をつなぐ気はないらしく、雲の垂れ込めた空を仰いだ。その横顔に、

(…あ…?)

半屋の意識の底で、ちらりと閃くものがあった。これとひどく似た光景を、昔どこかで見た。そうだ、ちょうどこんな無彩色の空の下で。

八樹は上着の裾を何度かはたいて立ち上がった。
「俺、四限目あるからもう行くね」

 

───いつまでもだらだらと中空に居座っていた針みたいな三日月を、
───色のない雲が覆いつくしてそこから雪が、

(…雪)
川に吸い込まれる雪。濁った青。幅の狭い橋。

 

「! おい」
背を向けた八樹を、半屋は反射的に呼び止めた。八樹は驚いた顔でこちらを振り向いた。
「…どうかした?」

───泣いていた、小柄な少年。

「お前、梧桐の…」
梧桐の母親の葬儀の日に泣いていたか、と訊くのはさすがにためらわれて、半屋は質問を変えた。
「梧桐君の?」
「あ、いや…お前、中学ん時は背、このくらいだったか?」
と言って半屋は、自分より頭半分ばかり下を示した。だが尋ねるまでもなく、既に半屋は確信を抱いていた。八樹はあの時の少年だ。

「…うん。まあ、そんなもんだったかな」
予想通り八樹は頷いた。それが何か、と彼は訊いてきたが、半屋は取り合わなかった。
「別に」
「ねえ、半屋君」
もう返事をしないでおこうかとも思ったが、呼び止めたのは自分だったから、半屋はおざなりに応えた。
「…ンだよ」
「俺、君や梧桐君みたいに、強くなりたかったんだよ」

幾分高めの、空気に溶ける声音。半屋は八樹の声だけは、さほど嫌いではなかった。だから話を続ける気になったのかもしれない。

「梧桐と同列に並べんじゃねェよ」
「だって似てるよ」
半屋は眉根を寄せて八樹を睨んだ。
「何だと、コラ」
ほら、と八樹は言った。
「そうやって、似てるって言われると怒るとことかさ」

そうして半屋を見て、はじめて花が開くように笑った。それは普段の仮面を思わせる愛想笑いではない、多分、半屋が今まで見たことのない本当の表情だった。

視野の端に、うすい雲を通した白い太陽と、その下を横切ってゆくトラックの荷台が映った。

「俺も、君達みたいに上を見たい」
と八樹はまた笑った。半屋は低く呟いた。

 

「…オレは、お前みたいな人間になりたかったんだ」

時に痛々しいほど自分に誠実で。
───誰かのために本気で泣ける人間。

その言葉が、塀の脇を通るトラックのエンジン音に掻き消されることを計算してのものだったのか否か、半屋自身にももはや判らなかった。

「なに? 聞こえない」
八樹が問うたが、半屋は目を閉じて今度こそ本格的に横になった。
「二度と言うか、バカ」
「さっきから人のことバカバカって。もう化学教えないからね」
薄目を開けて見ると、八樹は工業科校舎の時計を見上げていた。そろそろ三限目が終わる。
「サボってばっかいないで、四限からはちゃんと出なよ」
「うるせぇ。お前だってサボリだろうが」
「俺は三限目は自習だったんだよ」
そう言うと、八樹は体育科の方角に向かって歩いて行った。

 

「…ふん。てめぇが言うなら四限はヤメだ」
だが、五限目の英語からは出てやってもいい。半屋は両腕を枕にした。まだ芯に痛みが残っていたが、気分はそれほど悪くなかった。

目を開くと、真上に白い太陽を抱いた曇り空のパノラマが拡がった。

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