トレモロ

筆で刷[は]いたような綺麗な白が、また空の裾を流れた。
「………」
たなびく雲を、そうして幾つ数えただろう。八樹は軽く息をつくと、ひとつだけ開けていたシャツのボタンをかけ、タイを締め直した。いつまでもここに突っ立っている訳にもいかない。

生徒会室の扉脇の看板には、いつ見てもいかめしい字で「二十六代目生徒会長 梧桐勢十郎ノ部屋」と筆書きされている。ノックしようとして、八樹はまた少し逡巡した。

(…やっぱり今日は帰ろうか)

そう考えて踵を返しかけた時、凄い勢いで扉が開き、金髪の元役員と小柄な書記が飛び出して来た。
その後を、聞き慣れた怒声が追った。

「バカ者ー! オレが探して来いと言ったのは『日本呪術全書』だ! 『古代魔術大全』などではない───!」
「わあっ、す、すみません! 探し直して来ます!」
「もー、似たようなモンじゃないかーっ!」

二人は廊下を駆けながら、八樹の姿に気づいてそれぞれに声を掛けた。
「あっ、八樹さんおはようございます!」
「セージなら中だよ! わかってると思うけど!」
彼らの共通項は、緊急時のこの妙なマイペースさだ。八樹は変な所に感心しつつ、とりあえず青木に「おはよう」とだけ返した。
聞こえたかどうかは不明だが。

そして、開け放たれた生徒会室の扉を振り返った。部屋の中には、梧桐が一人で座っていた。机の上には何が書いてあるのかわからない、やたらと分厚い本が数冊積み上げられている。

「…おはよう、梧桐君」
梧桐は睨んでいた本の山から目を離して八樹の方を見やった。
「なんだ、お前か。何の用だ?」
「用ってほどのことでもないけど」

梧桐の背後の窓で、銀杏 [いちょう] が葉を散らせている。
その黄金に視線をあずけたまま、八樹は
「再選おめでとう」
と言った。梧桐は焦茶の革表紙の本を、手慰みのようにめくっている。

「わざわざ、そんな事を言いに来たのか?」
八樹は彼の手元に目を落とした。
声を出そうとしてうまくいかず、左手で喉を押さえた。

「───二条の件では、迷惑をかけたと思ってる…」
我ながら持って回った物言いだ、と八樹は思う。
梧桐にはいつも、感謝の言葉も謝罪の言葉も上手く言えない。

「…二条? ああ、あのハゲになりそこなった連中か」
もう興味の無いような顔で、梧桐は言った。そして、
「おまえもあんな奴らに脅されてやることなどなかったものを。剣道部のひとつやふたつ、このオレがネオ剣道部か剣道部Zとしていくらでも作り直してやるぞ」
と笑った。二条を潰せなければ、そんな事は不可能だったろう。梧桐もそれは判っている筈だ。けれど、

「…本当にそうだね」
八樹は微笑した。梧桐は本を閉じ、左手を表紙に載せた。

彼の右肩の上に、四角く切り取られた空がある。今日はやけに雲が多い。絵筆で刷いた、不自然にあざやかな白。無遠慮なその明るさが、ちりちりと神経を炙る。それは何処か見覚えのある輝きで、

───ああ、ひどく苛々する。

 

 

(あの雲は)
二条兄妹と話した音楽室。その窓から見えた空に漂っていたのとよく似た形をしていた。

八樹が部を辞めようが土下座しようが、祖父である理事長の一言で剣道部はなくなると、二条南々海は笑いながら言った。
(土下座しようが…か)
そんなことまで調べたのか、と喉元まで出かかるのを、八樹はどうにか堪えた。この連中に自分の周囲を嗅ぎ回られたのだ、と考えるだけで不快だった。

もう一人の四天王である嘉神の事も、彼らは探っていた。嘉神の父親のことを。おそらく、自分の家庭環境についても知っているのだろう。父のことも、
───母親のことも。

昔夢に見た、暗い海のイメージが蘇った。海底の砂の、気味の悪い紅を吸った海草が騒々と揺れる。それはそのまま八樹の胸に、不快なざわめきとなって残った。

 

より強い者の下につくのは正しい事だから裏切りではないと、二条南王海は言った。
それに、嘉神も協力を申し出たと。
「君だけじゃないから安心していい」

(…何がだ)

一人だろうが二人いようが、裏切りは裏切りだ。大体、数を頼んで誤った行動を正当化するような人間だと、二条程度の男に思われたのが気に入らない。

「…軽く見ないで貰いたいな」
そう呟くと、南王海は苦笑した。
「それは失礼」
「より強い者? 悪いけど、俺には君が梧桐君より強いなんてとても思えないね」

南々海がむっとして口を開きかけたが、南王海は片手でそれを制した。
「成程。四天王などと呼ばれるだけあって、君は骨がありそうだ。では、我々の側には付かないと解釈していいのかな」
「俺に選択権が無いことは判ってるだろう」
八樹は吐き捨てた。南王海は口元だけで嗤った。

「…君の働きに期待するよ」
「最低だ、あんたは」

捨て台詞を残して、八樹は乱暴に音楽室の扉を閉めた。

 

───本当に、最低だ。
あの男も、その申し出を断れない自分も。

下を向いて歩いて行くと、前方に踵を踏みつぶした大きな上履きが見えた。
目を上げると、浅黒い肌の見知った顔が立っていた。
「…嘉神君」
「連中に従うのか」
嘉神の口調は静かだったが、奥底に怒りが感じられた。

「他に方法があるなら俺が訊きたい」
と答えると、嘉神は拳を握りしめた。その手が少し震えた。
「二条は卑劣だ。正しくない」
「君は彼らに逆らうの?」

嘉神が二条側に降 [くだ] ったのは知っていたが、八樹は敢えて問うた。嘉神は黙り込んだ。そして少しの間の後、梧桐に相談したら、と呟いた。
「俺は父の会社がらみだからどうにもならないが、お前の問題は学校内のことだ。もしかしたら…」
「彼には言えない」

八樹は即答した。
「もともと俺の蒔いた種だ。彼の手を借りるのはお門違いだろう」

嘉神は当惑して言葉に詰まった。
八樹は他人に頼るのを極端に嫌う傾向がある。

「だが、梧桐はいざという時には信頼できる…」
「知ってるよ」
言い募る嘉神に、八樹は冷えた声で応えた。
「そんなことは知ってる。俺が何年、彼と一緒にいたと思ってるの」

嘉神は俯いて、廊下の窓から軒先を転がる枯葉を見つめた。
そしてややあってから小さく、済まない、と言った。八樹は顔を上げた。
「───ごめん」
これでは八つ当たりだ。八樹は自身に失笑した。

「一人にしてくれないか。俺、今何言い出すかわからないから」
嘉神はまたしばらく黙ったが、そうか、と答えて踵を返した。そして背を向けたまま、
「おまえの生き方は不器用だ」
と言った。

(君に言われたくないよ)

八樹は内心で思ったが、口に出すのは控えた。
窓の外を、銀杏が鮮やかな黄金の影を残して風に舞っていった。

 

それから八樹は剣道場に向かった。すでに伊東らが稽古を始めていた。
「遅かったじゃないか」
伊東は八樹の姿を認めると、指導の手を止めて入口までやって来た。

「大会も近いってのに、後輩に示しつかねーだろ」
「あっ八樹先輩、ちょっと指導して下さいよ! 部長の教え方じゃわかりにくくってー」
横合いから甲高い声が飛んだ。
「うるせえな、塚原! 教えてもらって文句言うな」
「だってホントだもんね」
一年の塚原は、小柄でどことなく生徒会の書記に似ている。ただ性格は正反対で、物怖じしないというのか、年上に対しても全く歯に衣を着せなかった。

大会か、と八樹は呟いた。
「頑張ろうな! オレの代のうちにいっぺんくらい優勝しよう!」
伊東は言って八樹の背中を叩いた。八樹は苦笑した。
「いっぺんくらいって、そんな簡単に」
「何とかなるって、ウチにはお前がいるし。機会だってあと今度の大会と、三年の夏と冬と三回は…」
「え? 伊東君、三年の冬まで残るの?」
八樹が驚いて訊くと、伊東の方も目を丸くしてこちらを見た。
「お前、残らないのか?」
「俺、大学は一般で受けるから。遅くても来年の夏には引退しようと思ってる」
伊東が文句を言い出さないうちに、八樹はさっさと塚原の指導に回った。

───三年の冬。

(…そうか)
伊東はあと一年、剣道部に残るのか。
再選挙は二週間後だ。彼の引退が三年の夏だろうが冬だろうが、八樹のとる道がひとつきりであることに変わりはなかったけれど、

先刻までよりわずか、諦めの気持ちが濃くなったのも事実だった。

 

「先輩、大学一般受験なんですか?」
塚原が八樹を見上げて尋ねてきた。伊東との会話が聞こえていたらしい。
「そのつもりだけど」
八樹が答えると、塚原は残念そうな顔で髪を掻き回した。
「そっかぁ…先輩アタマいいもんなあ…」
「?」
八樹は首を傾げた。
なぜ塚原が知っているのだろう。実際悪い成績ではないが、梧桐や伊織のように総合で上位に入るほどでもない。大体発表されない五十番以下、三桁まで落ちない辺りをふらふらしている。

「体育科じゃいつもひとケタでしょ」
「ああ、科内の発表か」
そういえば塚原も同じ体育科だった。確か中学では陸上をやっていたという話だ。
「オレ、先輩と同じ大学行って、インカレとか出たかったのに」
「…インターハイじゃ駄目なのか?」
オレ剣道は強くないもん、と塚原はぶつぶつ言った。
「来年の夏までにレギュラーなんて無理だよ」
「そんなの、やってみなきゃ判らないじゃないか」

滑稽だな、と思いながら、八樹は塚原に言った。
やってみなくても判ることもある。

「塚原の努力次第だろ」

───努力ではどうにもならないこともある。

「死ぬほど努力してギリギリってとこだよー」
なおもぼやく塚原に、八樹は笑いながら、
「頑張れよ。俺も大学受験、死ぬほど勉強しろって担任に言われてるんだ」

内心ひどく複雑な気持ちでそう答えた。

 

(…でも)

───でも、俺は彼を裏切らないよ。

いつか吐き出したはずの言葉の残骸が、
未だ肺の奥にわだかまって苦しい。

苦しくて、無理に笑うたび泣きそうになる。

 

八樹、と名を呼ばれて我に返った。ことり、と椅子の鳴る音がした。
梧桐は席を立ち、こちらを正面から見据えた。八樹は思わず窓外の白に視線を逃した。ふかい青の中に撒き散らされた雲。そうするとまた、何かに捕らえられたような奇妙にざわついた気分になった。梧桐は八樹の立つ入口の扉の前に、ずかずかと近づいた。

「…なに?」
八樹はどう対応していいかわからず、とりあえず笑ってみた。
「相変わらず」
梧桐は下から八樹の顔を覗いて、お前は不器用だな、と言った。
「嘉神君にもそう言われたよ」
答えて八樹はまた笑おうとしたが、その前にネクタイを掴まれて引っ張られた。
「わ! ちょっと…」

身を引く間もなく梧桐の左腕が首筋に絡んで、内側のシャツの襟首を掴んだ。
「…梧桐君?」
もしかしたら本人は抱き寄せたつもりなのかもしれないが、これではまるきり柔道の締め技だ。タイがきつくなって息苦しかったから、八樹は片手でこっそり襟元を緩めた。梧桐は左手を外さないまま、あの嘉神に不器用などと言われては終わりだぞ、と言った。

「ああ、それはそうだね」
八樹は苦笑した。梧桐は苛ついたように襟を掴んだ手に力を込めた。

「…もう無理に笑うな」
「───」
八樹は息を詰めた。
笑うな、と言われるとどうしていいのかわからなくなった。

「知らんようだから教えてやるが、お前が用もない時に笑うのは全部作り笑いなのだ。すぐバレるからオレの前ではやめろ」
そうなんだ、と八樹はつぶやいた。
「知らなかったな」
笑う努力を放棄すると、どういうわけかひどく悲しくなってきた。

「…くやしい」
悔しかった、と八樹は言った。
梧桐は左手を放して、その手で以前八樹がそうしたように、軽く背を撫でた。
「そうか」

 

強くあろうと必死になってきた、その努力が踏みにじられた事より。
仲間だと思っている人間を、傷つけなければならなかった痛みより、

───裏切らないよ。

直接、梧桐に言ったわけではなかった。約束でも何でもなかった。
ああ、けれど、

あの言葉はほんとうに、君のためだけのものだったのに。

 

「…ごめんね。梧桐君」
八樹は梧桐の肩に触れ、上着の布を握りしめた。そうしなければ涙が出そうだった。
「泣きたければ泣いてもいいぞ」
梧桐は言ったが、八樹は泣かないよ、と答えた。
「だって、俺だけ弱くなるなんてくやしいじゃない」
「生意気だな」

耳許で返る声音は笑いを含んでいた。
「オレのおかげで人間になったくせに」

 

八樹は梧桐の肩越しにまた空を眺めた。
筆で描いた雲はすでに無い。かわりに飛行機の白い胴体が見えた。
低く飛ぶ機影が、きんと高く震える音を残して空の端へ消えた。

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