「月世界」

幽霊のような細い月が、霧の中でゆらめいていた。
水中花を思わせる蒼い光の幕が、三日月の周囲で踊る。

(ぬけがらみたいだ)

剣道場の窓から月を眺めて、八樹はそんな印象を抱いた。
本物の月はどこかへ消えてしまって、殻だけが取り残されたような、頼りない輝きだった。
八樹は壁に据え付けられた時計を見た。すでに十時を回っていた。秒針が時を刻む音が聞こえるくらい、夜の学校は静かだった。

だから道場の扉を叩く音は、静寂の中にぎくりとするほどの大きさで響いた。渡り廊下と繋がった南側ではない、直接外に面したドアからそれは聞こえた。

 

「…誰?」
八樹は北側の薄闇に向かって問うた。誰もいない空間に彼の声はよく通ったが、返事はない。八樹は音の聞こえた扉に近づいた。するとまたかすかなノックが繰り返された。

八樹はロックを外して両開きの扉を開けた。
戸外には誰の姿もない。
(…?)
おかしいな、と思いつつ戸口を閉めようとした時、左手をかけた扉の陰からいきなり人の顔が覗いた。夜の闇にまだ慣れていない目には、その人物の奇妙に白い肌と、金に近い色に光る瞳しか見えなかった。

「うわっ!」
顔はひょいと引っ込んだ。
そして、扉の向こうでくすくすと笑う声が聞こえた。

八樹は左側のドアを一杯まで押し開けた。
「梧桐君! 何やってんだよ!」

梧桐は、剣道場のライトのせいか普段よりも色素の薄く見える目で、こちらを振り返って笑った。
「驚いたか?」
「驚いたよ。悪かったね」
八樹が憮然と答えると、梧桐はにやにやして
「幽霊だと思ったか?」
と訊いた。
彼には考えられない遠慮がちなノックはそういう意図か、と八樹は呆れた。

「思うわけないだろ。子供じゃあるまいし」
「オレより一つ下ではないか」
「半分だよ」
答えて、八樹は身震いした。道着の袖から風が吹き込んで、ひどく寒い。
「中、入らない?」

梧桐は一瞬黙り、それから
「おまえ一人か?」
と尋ねた。

 

梧桐は床の間の、日本刀の飾られている前に座った。ここに来た時の彼の定位置だ。いつもは偉そうに胡座をかいて腕を組むのだが、今日は膝を抱えて少し前屈みになっていた。

その姿勢のまま、梧桐は
「稽古をしていたのだろう。いいから続けろ」
八樹は時計に目をやった。もう十一時に近い。
「いや、今日はもう…」

言いかけて、八樹は梧桐の顔色の白さが灯りのせいばかりではないことに気づいた。そういえば、ほんの二、三日前、彼はクロ助に肋骨を折られたのだ。あの次の日は日曜だったから多少は休めただろうが、週明けからはいつも通り学校に来ている。身体が辛くない筈がなかった。

だが、大丈夫なのか、という問いは出てこなかった。

「…もう終わりにしようと思ってたんだけど」
そうか、と梧桐は言ったが、立ち上がろうとする気配は無かった。
八樹は梧桐に歩み寄って、側に膝をついた。

「ねえ、しばらく伊織さんに来てもらったら? 家で一人じゃ大変だろ」
梧桐は中学の時母を亡くしてから、実家を伊織の父に任せて一人で暮らしていた。
しばらく梧桐の実家に戻るか、伊織の方に来てもらうかすれば大分楽になるだろうと八樹は思ったのだが、梧桐は首を横に振った。
「だめだ。伊織には心配をかけ過ぎた」

オレなら大丈夫だ、と言う。
そしてまた膝を抱えた。ひっかかる言い方だなあ、と八樹は返した。

「俺は君の心配しないと思ってるんだ」
「心配なのか?」
逆に問われて、八樹は少し考えた。梧桐が怪我でつらいだろうとは思う。無理をしないで誰かの手を借りればいいのにと思う。だが、彼が無茶をして傷が悪化するのではないかとか、倒れるのではないかといった心配は、八樹の中には無かった。梧桐は自分をよく知っている。

八樹はだから結局、
「…君が大丈夫って言うなら大丈夫なんだろ」
と言った。それを信頼と呼んでいいものなら、八樹は自分でも不思議になるほど絶対的に梧桐を信頼していた。

梧桐はその答えを聞くと、さらに深く両手で膝を抱いた。肩がかすかに震え、やがて耐えられなくなったように、梧桐は声を立てて笑い出した。笑いすぎて少し咳き込んだ。

「ちょっと、梧桐君…」
八樹は慌てて梧桐の背をさすった。制服の上着を通して、その背にきっちりと包帯が巻かれているのがわかった。自分で巻いたものではなさそうだ。ちゃんと病院には行ったのだろう。

梧桐はまだ笑い続けながら、平気だ、と言った。
そして、切れ切れにお前がそんなふうだから、と続けた。

「…だからオレはここへ来たのだ」

彼の言葉の意味は解らなかったが、きっと解らないままでいいのだろう、と八樹は思った。
梧桐はそれきり押し黙った。八樹は彼の背中を、冷えた指でずっと撫でていた。
何故だか彼が泣いているような気がした。

 

高い窓に、褪せた色の光がわだかまっている。
月のぬけがらは暗い夜の波間に、上弦の不安定なかたちでゆらゆらと浮遊していた。

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