rusty
頭上を雲がひとひら、緩慢に過っていった。
ちぎれた雲の切れ間から、太陽が顔を出した。秋の日差しとはいえ、さすがに眩しい。
クロ助は学食脇の芝生に寝転がったまま、目の上に右手をかざした。
「!」
かすかに芝を踏む音がして、クロ助は無意識に神経をそちらに集中した。そしてここが日本で、少なくともあと半年は周囲の物音や気配に、そこまで過敏になる必要はないのだと気づいた。だが彼は身についた習性で、足音の人物との距離を測っていた。三歩、二歩、一歩。
特に敵意を感じさせるでもないその人影は、クロ助の脇に立った。そして、すいと屈み込んで彼の左耳の側の芝生を手でさらった。冷たい指が、耳朶 [じだ] を掠めていった。クロ助は目を開いた。
「こんな所で寝ない方がいいよ」
顔は逆光でよく見えなかったが、綺麗な発音のテノールに憶えがあった。
「ああ、八樹君か」
クロ助はひょいと起き上がった。八樹はそのクロ助の前で、右手を開いてみせた。すると小さなキリギリスが、慌てたように彼の掌から飛んで逃げた。
「耳に入りそうだったから。今の季節は虫が多いんだ」
「うわっ、日本の虫は風情があって嫌いじゃないけど、耳とか口とかに入られんのはさすがにヤだなあ」
八樹はじゃあ、と軽く会釈して、芝生から舗道に出た。
あれっ、とクロ助は声を上げた。
「なぁんだ。オレに会いに来たんじゃないの?」
「え?」
通りすがりだよ、と言って八樹は学食と隣接する体育館を指差した。ここからは見えないが、その奥には剣道場があった。裏門から剣道場に向かうと、ちょうど学食の南脇を通る。部活が始まる時間には少し遅い。何か外に用があって、裏から戻ったのだろう。
「昨日、半屋君が来たからさ」
「───半屋君が?」
八樹は意外そうな顔をした。
「君に会いに? 半屋君がそういうことするとは思えないけど」
違うよ、とクロ助は大仰に両手を振った。
「なんか、学食の端っこの方からオレのこと見ててさ。でも声かけたら怒ってすぐ帰っちゃったんだけど」
「ああ…」
それなら、と八樹は納得した。
半屋はもともと学食を利用する機会が多いらしい。昼休みに剣道場にいた時、彼が食堂に向かうのを幾度か見かけたことがある。
学食でたまたまクロ助と鉢合わせたのだろう。自分の方を見ていた、とクロ助は表現したが、睨んでいた、というのが正解だろうと八樹は思った。
「半屋君てさ、ホント勢十郎と仲いいんだね。オレのこと、親の仇みたいな目で見てたよ」
言って、クロ助は笑った。
「オレ、別にもう勢十郎に危害を加えようなんて思ってないのにさ。ちょっとね、もうしばらく様子見たくなったから」
「そうなの?」
そう、と言ってから、クロ助はふと興味を引かれた。
「ねえ、もし違うって言ったらどうする? またオレが勢十郎を殺そうとしたら」
八樹は表情も変えなかった。
そして、世間話でもするような調子でさらりと、
「その時は俺が君を殺すよ」
と言った。わずかに日が陰った。八樹の瞳から光が消えて、すう、と深い夜の色になった。
その色彩はどこかなつかしく、
そして憎くて堪らない、昔日 [せきじつ] の記憶の色だった。
(…その時には)
───その時には、俺はおまえを殺すよ。
「オレは君より強いよ」
そう言いながらクロ助は、実際彼と対峙はしたくないと思っていた。
そして、今さら昔の面影に怯えるのかと内心で苦笑した。
(いや)
未だに怯えているのか、と言うべきか。
「知ってるよ。でも俺は、手段なんか選ばないからね」
「怖いなぁ」
クロ助はおどけてみせたが、言葉はある意味本心だった。
八樹が、ではない。己の中に残る在りし人の影が。
「そうだね、たぶん君は人を殺せるよ」
八樹はこちらを見たが、相変わらずその瞳から感情は読めなかった。あるのはただ深い夜の漆黒。半屋君には殺せない、とクロ助は続けた。
「口ではブッ殺すとか言っててもね。勢十郎にも殺しは出来ない。でも君は殺せる。彼らと何が違うかわかる?」
八樹は答えなかった。
しかし彼は理由を知っている、とクロ助は思った。
知っていて諦めている、その目が気に入らなかった。だから畳みかけた。
「君が、自分の命なんかどうでもいい人間だからだよ」
だったら梧桐と半屋も同じだ、と言い返しかけて、八樹は結局黙った。クロ助の台詞は、自分の命に価値を見出していないという意味だろう。己の命の重さを承知した上でなおそれを賭ける梧桐や半屋と、八樹は根本的に違う。
「自分の命を重いと思ってないから、他人の命も何とも思わないんだ。君はオレが勢十郎に何かしたら殺すって言ったけど、別にそうでなくたって殺せるんじゃないの? オレがまるきり無関係な他人でも」
「………」
八樹の右手がゆっくりと動いて、左の肩の辺りを握りしめた。
「君、本当に勢十郎が好きなの? 最初に会った時、オレは君が勢十郎のこと憎んでるんだと思ったよ」
「───俺にだってわからないよ」
ようやく八樹は言葉を発した。
俯いた額に前髪が落ちかかって、男にしてはずいぶんと白い肌が青ざめて見えた。
実際に血の気が引いているのかもしれない。クロ助は日本の高校二年というのが年齢としては幾つだったか、と考えて、しまったと思った。たかだか十六、七の子供だ。
見た目が大人びた雰囲気だったから、錯覚して追いつめすぎた。
「ゴメン、言い過ぎた」
クロ助は慌てて詫びた。
「いいよ。本当のことだから」
八樹はそう言って、また左の二の腕を撫でた。
伏せた睫の落とす影が、本当にクロ助の知っていた人物によく似ていた。
「…君に似た人がいたんだ」
思わず言葉が口をついた。
八樹は顔を上げた。が、口は挟まなかった。
「オレのすぐ後に梧桐師範に弟子入りした奴で、まあ一応弟弟子ってことになるんだけど」
視線の先で、風に鳴る並木の梢から、乾いた音を立てて枯れ葉が散った。
親友だった、とクロ助は呟いた。
「…その人は、まだブラジルに?」
「もういないよ。オレが殺したから」
八樹はわずかに目を見開いた。
「殺したんだ。オレを裏切ったから」
クロ助は上目遣いに八樹を見て笑った。
「───信じる?」
何故話してしまったのかわからない。ただ、かつての友人の面影を持つ人間に自身の罪を告白するという行為は奇妙に贖罪めいて、神を信じたこともない自分が、と少し可笑しくなった。
八樹はそう、とだけ言って、クロ助の最後の問いは肯定も否定もしなかった。
そして、言葉を選ぶような少しの間の後、思いのほか強い口調で、
「でも、俺は彼を裏切らないよ」
と言った。
クロ助はまた芝生に座り、高く澄んだ空を仰いだ。
今しがた去った、八樹の背中を思い出す。
そこに今はもうこの世にない友人の影が重なり、蜃気楼のように揺れた。
悔いたことはない。だが、忘れたこともない。
彼の命を絶ったこの右手の感触と、赤錆にも似た血の匂い。それは生涯、自分の中に刻みつけられて消えることはないのだろう。殺した報いというものがあるならば、これが「報い」だろうと思っている。
八樹と梧桐の関係は、刀と鞘のようだ。どちらかが強く出来過ぎていれば、相手を傷つけずにはおかない。彼らの力は一見して対等ではない。梧桐は硬すぎる鋼 [はがね] で刀身を削る鞘だ。そうして一方が一方を摩滅させていった結果、
自分と彼の関係は、残酷な形で破綻したのだ。
───裏切らないよ。
かつて彼も同じことを言った。神にかけてもいい、と言った。
そういえば彼は神を信じていた。
「…期待してるよ。どこまで保つか」
雲ひとつない、ぽっかりと空虚な空に、クロ助は呟いた。
その独白がどこか祈りのように響いたのが意外だった。
クロ助は秋晴れの青を見上げ、ついに自分の友人に加護をくれなかった、
彼 [か] の国の神を想った。