本当の嘘
高い空の下、薄紅の花が揺れた。
梧桐は花壇の前にある小さなベンチに腰かけていた。風に煽られる秋桜 [コスモス] を何の気なしに眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「こんな所にいたんだ」
急にいなくなるから、と言って八樹は右手に持っていたジュースの缶をふたつ示した。
緑茶と、もう一方は見たことのないデザインの炭酸飲料だった。
「飲む?」
「ほう、気が利くな」
梧桐は言って、迷わず炭酸の方を手に取った。八樹は梧桐の脇に腰を下ろした。
「御幸と嘉神はどうした」
「嘉神君なら病院の入口まで一緒だったけど…何か用があるとかで帰ったよ。御幸君はまだ病院。半屋君と話し込んでたから、先に出てきた」
梧桐は缶ジュースのプルタブを引き開けた。
「君もいつの間にかいなかったしね。そしたら屋上から下にいるのが見えたから」
ところでさ、と八樹は炭酸の缶を覗いている梧桐に向かって言葉を継いだ。
「なんで俺の方に缶向けて蓋開けるわけ?」
梧桐は納得がいかないという表情で缶を揺らし、
「振ってから持ってきたと思ったのだがな」
「そんなことしないよ、君じゃあるまいし!」
そうか、と答えて梧桐はまた黙った。今日の彼はどうも口数が少ない。病院にいる間こそ半屋に軽口を叩いていたが、来る途中はほとんど口を利かなかった。
半屋の見舞いに行くから来い、という最初の台詞しか聞かなかったような気がする。剣道場から連れ出されて校門のところまで歩くと、嘉神が待っていた。御幸は一足先に半屋の入院先に向かっていた。
八樹は陽の当たる花壇に目をやった。ゆらゆらと動く花弁は、まるで夕日に透ける金色の波だ。秋桜の隣りには、秋咲きのクロッカスがあざやかな色の花をつけていた。
「…クロッカスの花言葉、知ってる?」
唐突な質問に、梧桐は怪訝そうな顔をした。
「オレがそんなもの知るわけがなかろう」
「『切望』だって」
梧桐は奇異なものでも見るような目で八樹を見つめた。
「星ばかりか花言葉にまで詳しかったのか。どこの夢見る乙女だ、お前は」
「書いてあったんだよ」
説明書きでもあると思ったのか、梧桐は立ち上がってクロッカスの花壇を覗いた。
八樹は違うよ、と言って笑った。
「そんなとこに書いてあるわけないだろ。今日君が仏花買いに行った花屋で、鉢植えに説明が付いてたんだよ」
「オレは胡蝶蘭の開花時期しか見ておらん」
それも何か変だ、と八樹は思ったが口には出さなかった。
梧桐はベンチに座り直して、缶に二口三口口をつけた。
(『切望』…)
その言葉は、後輩の仇を討つためにたった一人で巨大な暴走族グループに立ち向かった半屋の姿に、奇妙に重なるものがあった。思わずその鉢を手にとったが、横から嘉神に見舞いの品に鉢植えは良くない、と止められた。嘉神は梧桐が仏花の花束を作らせている間もどうにか思いとどまらせようと色々口を出していたが、さすがにリボンがかかる頃には諦めた様子だった。
「ちょっと目についただけだよ」
これ以上嘉神の心労のタネを増やすのも気の毒だったので、八樹は素直にクロッカスを棚に戻した。そうして改めて見ると、鮮やかな黄と紫の花の群れは、切望という言葉にはあまりそぐわない印象だった。
「なんで、半屋君はあそこまでして後輩の仇とろうとしたのかな」
八樹はつぶやいた。
梧桐はこちらに視線を寄越したが、特に何を言うでもなかった。
「『愚流』を潰したからって、その後輩が帰ってくるわけでもないのに」
戦って守れるものがあるなら、自分も戦うだろうと思う。だが、何が還るでもない無茶な戦いに身を投じる半屋の姿勢は、八樹には理解できなかった。
「何を望んだんだろう…」
どうして望みなど抱くのだろう。
梧桐は八樹の横顔を見つめたまま、どうせサル並みに単純な理由だ、と言った。
「半屋とは話さなかったのか」
梧桐の問いに、八樹は首を振った。
「話すことなんてないよ…俺は身近な人を失くしたことはないから、半屋君の気持ちはわからないしね」
梧桐はそれを聞くと、何やら複雑な表情で
「失う人間の気持ちなどわかってやる必要はない」
と呟いた。その声は低く、八樹は聞き取り損ねた。
「───何?」
いや、と応えて梧桐は飲み干した缶を握り潰した。それを数メートル先の屑入れに向かって投げる。空き缶は派手な音を立てて、鉄製の籠の中に落ちた。梧桐は得意げに八樹を振り返った。
(…褒めろってことかな)
とりあえず「すごいね」と言っておざなりに拍手しておくと、梧桐はまあな、とふんぞり返った。
そして話のついでのように、
「人間が望みを抱くのは当たり前だ。箱の底には希望が残されているものだ」
と言った。神話のパンドラの箱の話らしい。
どこかしら歯車がずれたような妙な会話の流れに、うっかり本音が出た。
「俺、その神話大っ嫌い」
梧桐はちらりと八樹を見たが、異論を唱える様子はなかった。
「だって、世界が災厄で満ちてるのに希望だけ残ってるって話だろ。だったらいっそ希望なんて無い方が楽なんじゃないの?」
口に出してみると、我ながら呆れるような後ろ向きな意見だ。梧桐は沈黙したまま、じっとこちらに視線を注いでいた。その目に同情も憐れみも見えないことに、八樹は少し安心した。
梧桐は左足で、はみ出したクロッカスの花をつついていたが、考え込むようなしばしの間のあと、
「なぜ死ぬ時には苦しいか知っているか?」
と逆に尋ねた。意図を計りかねて八樹が黙ると、梧桐は続けて
「たとえ精神 [こころ] が死を望んでいようと、身体は生きようとするからだ」
死を望む、という言葉に八樹はぎくりとした。
おそらく梧桐は気づいているだろうと思っていたが、今まで直接それを問われたことはなかった。八樹は左手首を握りしめた。知らず鼓動が早くなった。
「生き物は生きるようにできているのだ。単純な欲望であれ高潔な理想であれ、希みを抱いて生きていくように出来ている」
「───何、それ…」
そういう風にできている、では身も蓋もない。
(でも)
「諦めて生きろってこと?」
どこかで梧桐らしい、とも思っていた。八樹は苦笑した。
そういうことだ、と梧桐は言った。
「オレはもう失うつもりはない」
そして、残念だったな、と笑った。
八樹は思わず梧桐の顔を見た。その横顔に感傷の色はなかった。だが、数年前に母親を失ったことが未だ彼の心に影を落としているのは確かだった。半屋が生死の境を彷徨う程の傷を負った今回の一件は、梧桐にその影を多少なり思い出させたに違いない。
(…だったら)
自分自身も、自分の命も。
相変わらずさして重要なものとは思えなかったけれど、
(つまらないことで傷つけたくないな)
梧桐を傷つけたくないから自分を大事にする、というのではどこか本末転倒だ。
だが、さほど悪くはない。自分にしてはそこそこ前向きだろうと思った。
(…これも『希望』のうちかなあ…)
成程、そういう風に出来ているものらしい。
陽が傾いて、病院の入口のドアの位置まで光が射した。八樹の見ている前でそのドアが開き、髪の長いシルエットが朱色の中に歩み出てきた。
「あ、御幸君だ」
八樹が立ち上がると、御幸はこちらに気づいて大きく手を振った。
「梧桐君、どうせだから一緒に帰ろうよ」
揺れる秋桜を見ていたらしい梧桐は、八樹がそう言うと腰を上げた。
「半屋君、早く元気になるといいね」
ああ、と梧桐は笑った。
「あのうるさいサルがおらんと、何かと退屈だからな」
御幸が駆け寄ってきた。
八樹は最後にもう一度、あざやかなクロッカスを振り返った。
あの花言葉は『強い望み』という意味だったのかもしれないな、と思う。
対照色の美しい風采は、希望の名にはいかにも相応しかった。