エーテルノート

視野の端を、ふたつ並んだ赤い光が緩慢に通り過ぎていった。
梧桐は読んでいた革表紙の本から顔を上げた。灯りは窓をひとつずつ同色に染めながら流れ去り、やがて電車は駅のホームに滑り込んだ。

(踏切の明かりだ)

ならばあと一駅だな、と思う。
梧桐が帰る時間帯の電車は、大抵ラッシュにぶつかって混んでいる。窓から駅名の表示が見えることは少ない。だから彼は、下車するひとつ手前の駅、直前に設えられた踏切の警報機を、いつも目印にしていた。ゆっくりと流れる赤い光は奇怪な螢のようで、嫌でも注意を引いた。

手にした本を閉じ、今のうちに移動しておこうとドア近くに目を向けると、周囲から頭ひとつ分飛び出した人影が見えた。

(珍しいな)
梧桐は人波を掻き分けてその人物に近づき、八樹、と声を掛けた。
「あれ、梧桐君」
「こんな時間にどうした」

八樹は普段、部活が終わった後も学校に残って自主練習をしている。
六時台の電車に乗ることなど滅多にない筈だった。
「今日は部活、出なかったから。ちょっと具合悪くてさ」
「ほう、そういう自己管理が出来るようになるとは、なかなか成長したな。昔は倒れるまで我慢していたものだが。確か中三の時、それで救急車を呼ばれそうになっただろう」
「変なこと思い出さないでくれよ」

八樹は抗議したが、どことなく覇気がない。確かに調子が悪そうだった。彼は窓の外に目をやった。梧桐が何となく同じ方を見ると、見慣れたホームの景色が左端から流れ込んできた。

 

電車が止まった。扉から吐き出される人の流れに乗ろうとして、梧桐は八樹がぼんやりと手摺の脇に立ったままなのに気づいた。

「おい、お前もここだろうが!」
「え?」
八樹の腕を掴んで車外へ引っ張り出した直後、空気の抜ける音を立ててドアは閉まった。

「ばか者! 危うく扉にはさまれて200mくらい引きずられてしまう所だったではないか!」
梧桐は怒鳴った。
「…いや…200m引きずられたかどうかは…」
「そして明日の朝刊の一面の見出しを飾ってしまうのだ───!」
「せいぜい三面の隅っこだと思うけど」
言いながら八樹は、正面にある青と黄のベンチを指差した。
「…ちょっと座っていい?」

 

別に君は帰っても、と言う八樹を無視して、梧桐は彼から一つおいた隣のベンチに腰を下ろした。手を伸ばして触れた額は、自分のそれと比べてみるまでもない、ひどい熱を持っていた。

風邪だな、と梧桐は断じた。
「そうなのかな」
八樹は自分の膝に肘をついて俯いた。
瞳が熱のせいか、濡れたように光っている。

「馬鹿が罹 [かか] るのは夏風邪と決まっている」
「酷いなあ…」
熱があるというのに、八樹の顔色は平素よりもむしろ青ざめて見えた。
まるで

(命のない)

人形のように。

「自分のために強くなるなどと偉そうにほざいておいて、健康管理もできないようでは世話はないな」
梧桐が軽口を叩くと、八樹はそうだね、と苦笑した。
「無理してたつもりはないんだけど…」

 

梧桐が八樹と再戦したのは三日前のことだ。準備期間が互いに一週間あり、その間八樹はいつも通り部活と自主練習をしていたと聞いている。だが、精神的な緊張はやはりあったに違いない。

八樹は肘をついたまま、斜め下から梧桐の顔を覗いた。そしてふいと、
「ねえ、どうして俺が強くなったかわかる?」
知るか、と梧桐は返した。八樹の視線が梧桐からわずかに逸れた。
睫が瞳に昏い陰影を作る。光が失われ、あとに残るのは黒い穴。

───石炭袋。

初めて彼の目を見た時、その言葉が脳裏を過った。
以前何かの小説で読んだ。石炭袋、とはブラックホールの別名。

───空の穴の名だと。

 

「君が、強くなれって言ったから」
八樹は言って少し笑った。冗談めかした口調だったが、多分本当だろう、と梧桐は思った。意志を持たぬ人形のように、彼は唯々諾々と最初の言葉に従ったのだろう。

(最初の言葉)

石炭袋に最初の火を投じたのは自分だ。
それがいつか、感情の欠片すら浮かばなくなった心を再び息吹かせてくれればいいと願った。

「…だから…」

そうして八樹は、梧桐の望み通り自身の意志で歩き出そうとしている。それを淋しいとは思わない。淋しい、と言えるほど強い感情ではない。ただ心のどこかに、奇妙に空虚な気配がある。

「だから貴様は馬鹿だと言うのだ」

八樹は微笑した。
「君はそう言うと思ったよ」

 

梧桐は荷物を持って席を立った。
十分ほども休んでいたが、八樹の体調はましになったとは思えなかった。
「帰るぞ。こんな所で休んでいても埒が明かん」
「いいよ、先に帰って。君の家、俺とは出口逆だろ。俺はもう少し…」
「お前、一人で歩けないのではないか?」
梧桐がそう尋ねると、図星だったらしく八樹は黙った。

「仕方がないな、このオレが家まで送ってやろう。おんぶかお姫様抱っこかどちらか選べ!」
梧桐が楽しげに追い討ちを掛けると、八樹はあからさまに嫌そうな顔をした。
「……どっちも嫌だよ…」
「ほー、ならば自分で歩くと言うのだな。では立って歩いてみろ、今この場で!」

かなり長い間が開いた。
八樹はベンチの背に手を掛けたものの、少しして諦めたように息をついた。
「……肩、貸してくれる?」

 

八樹は梧桐の肩に掴まってホームを横切った。
が、下り階段にさしかかった辺りで梧桐の方が挫折した。
「ええい、妙な意地を張っとらんでおぶされ! ちっとも前に進まないではないか!」

そもそも梧桐が八樹に肩を貸すこと自体、身長的に無理があるのだ。梧桐は階段の段差を利用して八樹を背負った。今度は八樹も文句は言わなかった。
「荷物はお前が持っておけ。落とすなよ」
八樹は、梧桐の肩の辺りであいまいに頷いた。呼吸が浅い。
「大丈夫か?」
平気だよ、と八樹は答えたが、あてにはならないと梧桐は思った。

駅を出ると、夜空が高かった。昼間は未だ日差しが強いが、空はすっかり秋の様相だ。真上に白鳥座が見えた。北十字とも呼ばれるこの星座は、さすがに梧桐も覚えていた。

「八樹」
白鳥座だ、と梧桐は言った。
そういえば、白鳥の首のところにブラックホールがある、とどこかで聞いた覚えがある。

(…石炭袋)

宙 [そら] に開いたその穴は、この心の空洞と同じ色をしているだろうか。
自分の心に、他者を支えることで自分自身をも支えている部分があることを、梧桐は承知していた。だからこの空虚の名は寂寞 [せきばく] ではなく、支えを失う不安なのかも知れなかった。

梧桐は内心で苦笑した。そして、
「第五元素の名は何と言ったかな」
と呟いた。第五元素というのは宇宙空間を埋める媒体物質なのだと、昔八樹に聞いた。応えは期待していなかったが、八樹は梧桐の背中で気怠そうに言った。
「…エーテル」
「起きていたのか」
それは想像上の媒質だけどね、と八樹は続けた。
「でも実際、宇宙の真空部分を埋める物体はあるらしいよ。『ダーク・マター』だったと思う」
「『エーテル』の方が響きはいいな」
そうだね、と八樹は言った。

(エーテル、か)
それがこの身の空洞を埋めてくれればいい、と少しだけ思う。
八樹、と梧桐はまた呼んだ。

「なに?」
「お前、さっきオレが白鳥座を発見した時はワザと無視しおったな」
「だって君、昔からいくら教えても白鳥座とオリオン座と北斗七星しか覚えなかったじゃないか」
さすがに見飽きたよ、と言って八樹は笑い出した。彼には珍しい、屈託のない笑いだった。自分が笑われたことには腹が立ったが、さほど不快ではなかった。
その一瞬だけ、奇妙な空白がほんのわずか埋められたような気がした。

 

秋の色の風が吹いて、八樹の髪が柔らかく首筋をくすぐっていった。
かすかに熱の匂いがした。

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