エンゼルフィッシュ

空には雲ひとつない。皮肉なほど冴え渡る青を見つめて、クリフは溜め息をついた。
眩しいくらい白い病室に澄んだ空の青。
何もかも、この場の重い空気にはそぐわない。

「用がないなら帰ったらどうですか」
八樹はこちらに背を向けたまま、冷えた声音で言った。
先刻から身じろぎもせず横たわっていたから、眠っているのかと思った。

「…あ…起きてた?」
「………」
八樹は答えない。起きていたなら当然今の溜め息は聞こえただろう。油断した、とクリフは思う。
(ああ~…やっぱボクなんかが来ない方がよかったかなあ…)

歓迎はされないだろうと予想していたが、ここまであからさまに拒絶されるとも思わなかった。
今までの穏和さは仮面だったのだと思い知らされる。彼はこの調子で、様子を見に来た剣道部員たちも全員病室から追い払ってしまった。自暴自棄ともとれる行動だが、態度だけは終始落ち着き払っていたから、実際どうだったのかクリフには判らない。

もっともその時は八樹の暴言のフォローに懸命で、行動理由を考えるどころではなかったのだが。

(…セージのせいでフォロー癖がついてるよなあ…)
そうして次々と来る部員をなだめて、結果ひとりで八樹の枕元に取り残された。
(…貧乏クジの引き癖もついてるかも)

 

行く必要はない、と梧桐は言った。
「だって…様子、気になんないの? あんな胴が壊れるよーなパンチ浴びせられたら、骨にヒビくらい入ったかもしれないよ」
「心配するな。あいつは魚派だから骨は丈夫なはずだ」
冗談とも本気ともつかない口調で、梧桐は読みかけの分厚い本を開いた。背表紙には金文字で、『世界の秘密結社の謎』と記されている。

「ちょっとセージ、そーゆー問題じゃないだろー! もー、そんなマニアックな本読んでないで…君、八樹君と秘密結社とどっちが大事なんだよ~っ」
「うーむ、薔薇十字カバラ会や人民寺院よりは奴の方が上だが、サッグ団あたりと比べるとちょっと怪しいな───」
「何言ってんだよもー、とにかくボクちょっと病院行ってくるから…」
机の上に手早く書類をまとめて、クリフは生徒会室のドアを開けた。
一歩踏み出してから、梧桐を振り返る。

「セージ、何か伝言とかある?」
必要ない、と彼は笑った。

「───あいつは強い」

 

とりとめのない思考は、苛ついたテノールの響きに破られた。
「…いい加減にしてくれませんか。さっきから何なんですか」
「えっ」
クリフは顔を上げた。八樹はこちらに向き直ってクリフを睨みつけている。
「人の横で溜め息ばっかついて…言うことも用事もないならさっさと帰って下さい、鬱陶しい」
「え? 嘘、ボク溜め息なんてついてた?」
「五分間で六回」

八樹はぼそりと言った。さっきより明らかに機嫌が悪くなっている。
「アハハ、そ、そう…ごめんね、ちょっと考え事しててさ…数えてるなんて八樹君も人が悪いなあ」
「…考え事なら家に帰ってゆっくりしたらいいでしょう」
言うと、八樹はまたそっぽを向いて布団を引きかぶった。

「あれ? 何、寝ちゃうの? せっかくマトモに口きいてくれたと思ったのにー。ねえ、もっと話そうよ~」
クリフは八樹の被っている布団を引き剥がした。
基本的にクリフは大胆な性格だ。伊達に常日頃、あの梧桐に好き勝手なことを言っていない。理不尽に拳が飛んでくる危険性が格段に低い分、彼にとって八樹は梧桐ほどの脅威ではなかった。

「ちょっと…何を」
「いいじゃない、どーせしばらく前まで失神してたんだから眠れないでしょ? 退屈しのぎにさあ」
「だから退屈なら帰ればいいでしょうが!」
八樹はクリフの手から掛け布団を引ったくった。
そして、ベッドサイドに置かれた雑誌を手に取った。
「眠れないなら俺は本でも読んで時間潰しますから」

言外に帰れ、と八樹は言ったのだが、クリフは意にも介さずその雑誌の裏表紙を覗いた。
「あ、エンゼルフィッシュだ」
「………」
本物の熱帯魚ではなく、パソコンで熱帯魚を飼うソフトのCMだった。

「ボクねえ、昔エンゼルフィッシュって空を飛ぶモンだと思ってたんだよねー」
言いながら、クリフは右手の人差し指で魚の写真をつついた。
八樹はさすがに呆気にとられた。
「…は?」

「だって『エンゼル』っていうくらいだからさ。羽根が生えてて空を飛ぶんだと思ってたんだよね、まあ、すごく小さい頃の話だけど」
人魚に羽根が生えたようなのを想像してたんだ、とクリフは笑った。
「天使とか人魚とか、すごくキレイなイメージあるじゃない。だから両方が合わさったら、夢みたいに綺麗だろうな~って思ってて」
八樹はクリフの言うところのエンゼルフィッシュを想像したが、あまりいいものとは思えなかった。
「合わさったらキメラみたいでグロテスクだと思いますけど」
「だからコドモの夢だってば。で、名前しか知らないのに両親にせがんで買ってもらってね。そしたら普通のシマシマの魚だったからさ、『こんなのじゃない』って大泣きして」
「…親もいい迷惑ですね」

クリフの台詞を素っ気なく流して、八樹は雑誌のページを繰った。中には星雲の写真や超新星に関する記事などが並んでいる。クリフはふと疑問を感じて口を開いた。
「そういえば、この本てどうしたの? 病院じゃあ売ってないでしょ?」
「お見舞いらしいですよ。…一応」

八樹は言ってちらりと笑った。クリフは首を傾げた。
見舞いに来た人間を、八樹はクリフの見ている前で片端から追い返した。彼らの持ってきた物ではない。
(ボクより先に訪ねてきた誰か…)

「ローヤーさんが来る前ですよ」
と、八樹はクリフの質問に先じた。そして手にした雑誌をくるりと返して表紙を示した。
「『ふざけるな』って、投げつけていったんです。ほら」
かなりの衝撃だったのだろう、背表紙側の下の方がくしゃくしゃになっていた。

「うわ…これ、ぶつけられたの? イタそう…」
「別に。当たったのは俺じゃなくてそこの壁ですから」
と、八樹は背後を指差した。クリフは思わず雑誌と病室の壁とを見比べた。
「何だってそんなこと」
ねじ曲がった太陽の観測写真を指で辿りながら、八樹は
「ああ…どうして相談してくれなかったんだとか訊くから、君に関係ないだろって言ったら」

クリフは唖然とした。
「───そりゃ怒るよ! 友達だろ!」
「俺はそんなに親しくしてたつもりないんですけど。まあ特に好きでも嫌いでもなかったし、わざわざ意地悪くする必要もないですから」
それは一番タチが悪い、とクリフが言おうとした時、廊下をばたばたと駆ける音がした。八樹は眉を顰めた。足音は彼らのいる病室の前で止まり、扉が勢いよく開かれた。

「八樹!」

あっ、とクリフは小さく声を立てた。ほんの数時間前、県立体育館で見た顔だ。目鼻立ちにとりたてて特徴があるでもないが、クリフが梧桐の命令で八樹の様子を窺う間、たびたび彼と話していたからよく覚えている。

また来たの、と八樹は興味もなさそうに言った。
「病院内では静かにね、伊東君」

伊東と呼ばれた少年は、病室の入り口でひとつ息をついた。どこから走って来たのか、額から汗が伝っている。
「……二週間の…停学だって」

八樹の処分のことらしい。あれだけの事件を起こした割には軽い。
多分梧桐が裏で手を回したのだろう、とクリフは思った。

「そう」
当事者の八樹は他人事のような顔をしている。伊東の方が余程悔しそうだった。
彼は唇を噛んでしばらく俯いていたが、やがて
「…戻ってくるんだろ? 剣道部」
さあ、と八樹の応えは取り付く島もない。伊東は拳を握りしめた。その手が震えて、関節が白く浮いた。

彼は絞り出すような声で、戻って来いよ、と言った。
「オレ、待ってるから」

「───」

八樹は一瞬、子供のように戸惑いを顕わにした。気づいたのは側にいたクリフだけだったが、その当惑はすぐに仮面の笑顔に取って代わった。
「…君も物好きだね。待ってたって戻るとは限らないよ」
「いいんだよ、オレが勝手に待ってんだから」
伊東は言って八樹を睨んだ。
八樹は苦笑したが、それは何故か、クリフの目には泣きそうな表情に映った。

「…八樹君?」

わかったよ、と八樹は答えた。
「部活のことは考えておくよ」
伊東の顔がぱっと明るくなった。
「そっか! 良かった! あ、じゃあオレ稽古抜けて来たから」
と、ドアノブに手を掛ける。八樹は笑って、
「あ、でも戻るとしても別に君に言われたからじゃないから」
「…ひとこと多いんだよ、馬鹿!」
捨て台詞を残して、伊東は乱暴にドアを閉めた。

走り去る足音が聞こえなくなるまで、八樹もクリフも無言だった。

 

「…さっき静かにって言ったのに」
しばらくして、八樹は呟いた。
「うん」
クリフは頷いた。
いい友達じゃない、と言うのは簡単だったが、なぜだかそれが八樹を傷つける言葉のような気がして出来なかった。クリフは表紙の曲がった雑誌に目を落とした。

「…なんで、自分を裏切った人間をああしてまた信じられるんでしょうね」
言葉は質問の形をしていたが、八樹に問う気はないようだった。
「また、同じことをされるかもしれないのに」

八樹はベッドに座ったまま、片膝を抱いた。
視線を窓の外にうつす。地平線がかすかに赤く染まり始めている。ぽつんとひとつ浮いた雲は、深海の魚によく似た奇怪な形をしていた。

クリフは陽光を浴びて朱を帯びた前髪を、左手の指に絡めつつ、
「…信じたいからじゃない?」
と言った。八樹は彼を振り返った。光を映さぬ漆黒の瞳がクリフの姿を捉え、それからシーツの上の雑誌に落ちた。八樹は左手で、作り物のエンゼルフィッシュの輪郭をなぞった。

「また裏切られるかも、って逃げるより、やっぱり信じたいじゃない」
八樹は黙った。おとぎ話みたいにさ、とクリフは言葉を継いだ。
「最後は必ず幸せになるとか、いいことをすれば必ず報われるとか、そんな魔法みたいな『絶対』は無いってわかってるけど」

クリフは八樹の手元を見た。
子供の夢想とはかけ離れた、モノトーンの熱帯魚。けれど、

(…綺麗な魚)

 

「───叶うことはあるから」
夢物語でなくても。
八樹は瞼を伏せた。そして小さく、そうですね、と言った。

 

夕日の朱が地を這うように、ゆるゆると拡がった。
クリフは椅子から立ち上がった。
「じゃあボク、そろそろ帰るね。八樹君、今日はこのまま病院?」
「…ええ、一応様子見ってことで…」

あの、と八樹は言いにくそうに切り出した。
「梧桐君に言われて来たんじゃないんですか?」
「え、セージ? 違うよ~、ボクがお見舞い行くって言うまで、一言もなかったんだから」
「そうですか」
返る声音から、感情は読み取れない。
八樹の表情は逆光になって、クリフの位置からはよく見えなかった。
「伝言がないか訊いたんだけど、あいつは強いから必要ないとか言っちゃってさ。ちょっと冷たいと思わない?」

八樹は窓外に視線を逸らした。かすかに、笑ったような気配が伝わる。
「…いえ。彼らしいですよ」

 

クリフが去ったあと、八樹はベッドに寝転がって、しばらく暮れてゆく空を眺めた。夕焼けは端に紫紺の帯を曳いて、淡く地平を覆っている。

叶うことはある、とクリフは言った。きっとそうなのだろう。
目を瞑って、叶う願いもすべて捨てて、逃げ出してしまいたかった。

「甘えてたなあ…」
誰にともなく八樹は呟く。
血の色にしか見えなかった深い紅は、今はただの落日の色だった。
謝りに行こう、と思う。
逃げずに自分の足で、彼に会いに行こう。

「…強くなりたい…」

八樹は目を伏せた。涙が出てきた。
閉じた瞼の裏で、空を埋めた光の残影が、ひらりと泳ぐように躍った。

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