Sink

夕刻に降った雨の匂いが、夜の空気に染みついていた。
歩を進めるたび、湿った重みが手足に絡んで、海の底を彷徨っているようだ。八樹は天を仰いだ。

西の空は未だ雲が厚かった。
風が速い。夜空の暗黒よりもわずかに明るい色が、頭上を次々とちぎれ飛んでゆく。

 

(…月が見えない)

そう思ってから、新月なのだと気がついた。
自分で新月の夜を選んだのだ。
光のない、どこまでも昏い夜を。

八樹は左手に握りしめた木刀に目を落とした。
柄まで滴る血の色は、闇に覆われたただの漆黒だ。それを見ると少し安心した。
赤い色は嫌いだ。
とりわけ人間の血の深い紅が嫌いだ。

あの女の唇の色を、それらはひどく鮮明に思い出させるから。

 

 

最初の晩はさんざんだった。あの日は満月だった。
(先にからんで来たのは向こうだ)

いつものように一人、遅くまで剣道場に残った帰り道、柄の悪そうな数人の男に取り囲まれた。八樹は木刀を持っていたのだが、相手は数を頼んでか怖じ気づく様子もなく、鷹揚 [おうよう] に声を掛けてきた。

「明稜四天王の『ヤツキ』ってのはてめえだよなァ」
明らかに漢字を知らないと思われる発音で、派手な金茶の髪の男が言った。
見たところ、その男が「頭」のようだ。
「…そうだけど」

四天王。半年ほど前に冠されたこの名が、八樹は厭でたまらなかった。
(大した相手じゃなかった)
八樹が倒した他校生らが数だけは多かったことと、「女の子を助けた」ということ、それで一躍英雄的に四天王などと呼ばれるようになってしまった。
無責任にもてはやすクラスや部の連中に、別に助けたくて助けたわけじゃないよ、と言ってやったらどんな顔をするだろう。そんなことを考えながら、表面だけは笑って話を合わせていると、心だけが現実から遊離してゆくような奇妙な感覚を覚えた。

助けようなどとは思わなかった。
ただ、あの少女にからんでいた男の声が、金属質で耳障りだった。
鉄に浮く赤い錆のような、

───紅い、

「あんた以前、うちの連中にふざけた真似してくれたってなあ」
(…うちの連中?)
心当たりは、八樹にはひとつしかない。
この男たちは、あの他校生らの仲間なのだ。

ああ、それにしても、
なぜこういった人間達の声は誰も彼も似通った、
鉄錆じみた不快な赤を想起させる響きなのだろう。

腐蝕した金属音が耳の奥できりきりと渦を巻いて何も聴こえなくなる。

 

からん、と木刀が道路に落ちる音が、やけにはっきりと聞こえた。
八樹は先の方が暗い色に染まったそれを拾い上げた。男たちは全員が地に倒れ伏していた。リーダー格の男の顔は、気を失っている今見ると存外幼かった。彼の頭の左側からじわりと黒い滲 [し] みがアスファルトに広がるのを、八樹は見るともなく見下ろしていた。

なぜか、その滲みが何であるのかには思い至らなかった。

「…う」
「!」
男がかすかに呻いた。
時を同じくして月にかかった雲が晴れ、背後から光が射した。
煌々[こうこう] と輝く満月は、錆びた血の滴りの紅。月光が照らし出す黒々と描かれた道路の模様は、その一瞬で女の唇のぞっとする暗赤色に化けた。

「ぐ…うっ」
酷い吐き気を感じて、八樹は口元を押さえた。
動悸が激しくなる。
耳の奥で、無数の蟲が騒めくような血流の音が急に大きくなる。

八樹はじりじりと後ずさり、地面に投げ出された鞄を拾おうとした。鞄の取っ手はどういうわけか、なかなか手の中におさまらない。二度、手を滑らせて鞄を取り落としてから、右手を見ると夜目にも判るほど指先が震えていた。木刀を握ったままの左手でどうにか震える右手を押さえ、鞄を脇に抱え込んだ。
そして必死にその場を逃れた。

 

帰り着いた家に明かりはなかった。
父は残業か出張か、そういえば数日前に何か言っていた気がするが思い出せない。近頃ろくに話をしていなかった。ちょうど二週間前、母と離婚してから折りに触れて父が見せるようになった気遣いが、わざとらしくて不快だった。

八樹は玄関の扉を開けた。
廊下の小窓から入り込む月光が眩しいくらいだ。
敢えて電灯はつけなかった。父の靴は見当たらない。
やはり帰ってはいないらしかった。

 

おまえはあの子のためにならない、と父は母に言った。
「…なら、自分はどうなんだ」
闇の中におとした声音がひどい棘を含んでいて、八樹は自分でもぎょっとした。

そしてわずかに苦笑する。
今のはまるで、期待を裏切られたとでも言いたげな恨みがましい口調だった。
何を希うというのだ。とうに壊れたこの家に。

八樹は鞄を廊下に置いた。木刀も放り出そうとしたが、指が硬直して剥がれない。右手で一本ずつ指を開いて、しばらく経ってようやく床板の上にそれを投げ出した。
そのまま玄関先に座り込む。玄関のタイルが淡い緑に明滅している。
目がおかしくなったのかと思ったが違った。
靴箱の上で何か光っている。留守番電話の「用件」ボタンだった。

「…?」
八樹は点滅を続けるボタンを押した。少しの間のあと、
「ばか者!!」
と、聞き覚えのありすぎる威勢のいい声が飛び出してきた。
下僕の分際でオレに断りもなく学校をサボるとは何事だ、とか何とか、かなり理不尽なことを喚き立てている。明らかに昨日今日の録音ではない。八樹が学校を休んだのは、

(…ああ、先々週の)
そう思い当たった時、八樹、と電話の声は不意に穏やかになった。

「言いたい事があるならオレに言え。聞くだけは聞いてやる」
「───」
そこで電話は切れた。
短い発信音が続き、機械の合成音が一日午前の日付を伝えた。続く用件は無い。
電話はそれきり沈黙した。

 

「…あ…」
それ以上声が出ない。八樹はもう一度再生ボタンを押し、
「…っ!」
続けて「消去」のボタンに右手を叩きつけた。
「留守」のオレンジ色のランプにも手が触れたらしく、用件ボタンと同時に消える。世界中の灯りが消えて、血のように鮮やかな電源ランプの赤だけが残った。

八樹はずるずると玄関のタイルの上に崩れ落ちた。
指先がまた震えだした。

なぜ、と独りごちる。
どうして彼は、いつもこの手を引いて放さないのだろう。
(…頼んだわけでもないのに)
助けを求めたことなど一度もないのに、そうして手を伸ばす。

迷いのないあの瞳で、
残酷なほどの力強さで。

───苦しい。

胸の奥が、締めつけられるように苦しい。
くるしい、と声に出しそうになったが、そう口にしたら二度と立ち上がれない気がした。
出てきたのは別の言葉だった。

「…君さえいなければ」

彼さえいなければ、気づかずに済んだのに。
ここが凍土のごとく冷え切った場所だと。
ずっと目を閉じて耳を塞いで、そうして身を固くしていれば何も知らない振りができた。
それは死んだも同然かもしれないけれど、

───生きている方が幸せだなどと誰が決めたのだろう。

「消えてくれればいいのに」
そう呟きながらも、梧桐の面影は浮かばなかった。
本当に消してしまいたいのが誰なのか、八樹自身が一番よく知っていた。
胸が痛い。八樹は震えのおさまらない両手で膝を抱え、鳩尾 [みぞおち] を庇うように背を丸めた。
けれど痛みはいっこうに去らなかった。

 

あれから毎晩、月の夢を見る。暗い海の底から、月を眺める夢。
はるか上の水面に射す光はこの深海までは届かず、ちらちらと波間を漂うばかりだ。

(あそこには行けない)
海底の砂の上に立ち、八樹は思う。
ずっと海に沈んでいたから、肺にも気道にも水があふれて、躰が重い。あの高さまで泳ぎつくことなどとても出来ない。

青く清冽 [せいれつ] に輝く月は、それでも手を伸ばすかのように光を投げる。
何事かを告げるその声も、水底までは届かない。

どうして、と八樹は呟く。
けれど空気の残らない身体から声は出ない。わずかに口元の海水を揺らしただけだった。

なぜあの月は届かぬ光を降らすのだろう。
(…俺は)
とうに諦めた望みを繋ごうとするのだろう。
(君に助けなんて求めてない)
月光は水面を浚 [さら] うだけ、自分は永遠にこの深海に縫い止められて動けない。

八樹の足元にはざらざらとした暗赤色の砂、吐き気を催すその色が果てもなく広がっている。

 

八樹は自身の掌を見た。今日で何人目だろう、と思う。月の隠れた夜を選んでいたから、数はそう多くないのかもしれない。

(四天王…半屋)
梧桐以外の人間には負けたことが無いという噂だが、実力的には自分の方が上だったと思う。勝敗は最初の一撃でほぼ決していたとも思う。
(…なのに)
何故か八樹は、彼が倒れた後も執拗に攻撃を加えた。あれではまるで怯えて恐慌をきたしたかのようだ。八樹は苦笑して左手首を見た。そこに残る、並行する二本の赤い痕。木刀で突いた瞬間、半屋の右手の爪が掠めていった。落ち着いて考えれば半屋に攻撃の意図は無かったろう、偶然に過ぎないと判るのだが、あの時自分は攻撃と捉えたような気がする。半屋の目は最後まで戦意を失わなかった。
あの瞳に、だから自分は怯えたのかもしれない。

(自分のことなのに…)
筋道立てて考えないとわからないのが妙な感じだ。八樹は幅の狭い道から、更に路地に入った。細いその道には誰の姿もない。八樹は何かの店舗とおぼしき建物の壁を背に座り、深く息をついた。

自身のこの行動の理由すら、八樹にはわからない。
(こんなことをしてどうなるって言うんだ)

わからない。
霞がかかったように、思考も感情も麻痺していた。

半屋は死ぬかもしれない、と考えてみる。
やはり何の感慨も湧かなかった。
心だけが何処かに置き去られてしまったようで、気持ちがついて来ない。

判るのは、これが自ら選んだ結果だということ。
そして、その根底にあるふたつの言葉。
五年来の友人の名と、
(…消えてしまえ)

消えてしまえ、消えてしまえ、消えてしまえ。

「違う」
声は密やかに夜に溶ける。
───消したいのは、

八樹は血に染まった左手を開いた。すると凝固した血液はひび割れてぱらぱらと膝のあたりに落ちた。彼を縛りつけて放さない、深海の砂の色。

 

八樹の容貌は母親に似ている。殊 [こと] に子供の頃などは気味が悪いほど似ていた。
それが苦痛になったのはいつからだろう。
面差しが似ていると言われれば言われるほど、あんな風に平気で他人を傷つける人間にはなりたくないという思いが強くなった。そうならない為に必死に努力してきた。

「……は…」

八樹は笑い出した。ひとしきり笑った。
その声は自分の耳にも常軌を逸して響いた。

そのくせ、今自分がしている事はなんだ。母とどこが違う、全く同じだ。
梧桐と自分の問題に、無関係な他人までも巻き込んで傷つけている。そうして梧桐と直接対峙することを先延ばしにしている。結局、梧桐を傷つけることを恐れているのかもしれない。

(いや)
違う。彼をも平然と傷つけるに違いない、自分自身を恐れている。

(…逃れたい)

ああ、それよりも早くこの場から逃げなくては。
昼間でさえ人通りの少ない道だが、通りかかる者がいないとも限らない。

八樹はしかし、座り込んだまま動けなかった。ひどく疲れていた。
見つかっても構わないではないか、とも思う。全てが露呈すれば楽になる気もする。

 

「……誰か」
自分が何を欲するのかも判らぬまま、八樹は虚空に言葉をこぼした。
そして薄く笑った。
今さら、誰に何を求めるというのだろう。
最後の光を、己の手で握り潰そうとしている自分が。

(知っている)
答えなら知っている。
(俺は、多分…)
たぶん、本当に絶望してしまいたいのだ。

八樹はまた空を眺めた。
月の姿はない。
けれど彼は、そこに幻の月を見る。青白く清冽な、そして遠い光。
それはすぐに暗雲に覆われ、切れ切れの雲の間からわずかな光の触手をのばした。海底から見上げた、あの夢の色そのままに。

無駄だよ、と八樹は囁く。
いくら手を伸ばしても、希望など抱かない。
光など二度と射さなければいい。八樹は目を閉じた。

 

───君の声はもう聴こえない。
ここは深い、海の底だから。

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