May Day

両親が正式に離婚した次の日、八樹は学校に来なかった。
梧桐は、朝から苛々と生徒会室の中を歩き回っていた。

空気がひたすら重い。
最初のうちはクリフが、八樹君だって朝練サボることくらいあるよ、などと軽口を叩いていたのだが、二限目の休み時間にはそれも無くなった。伊織の指がキーを打つ音だけが、かたかたと響いている。

「セージ…あのさ、そんな苛つくことでもないんじゃない?」
沈黙に耐えられなくなったクリフが、おそるおそる発言した。梧桐はじろりと視線を返した。彼の目から光線が出て身を灼かれるのではないかと思い、クリフは慌てて持っていた書類を盾にした。
が、光線も鉄拳も飛び出してはこなかった。

梧桐は昨夜の電話がどうとか、彼には珍しくはっきりしない返事をした。
「電話? 電話したの?」
「一限目の休み時間に、購買の前でな。誰も出なかったので留守録を入れておいた。さんざん怒鳴っておいたからな、聞けば来るはずだ」

クリフは八樹と、梧桐がその電話をかけた時周りにいたであろう生徒達に同情した。
「留守電てことは、家は出てるんだ」
「聞き込み調査によれば、朝制服で家を出たところを向かいの老人が目撃している」

(誰の聞き込みなんだ…)

とクリフは思ったが、敢えてつっこまない。
梧桐はそれ以上説明する気もないらしく、また腕を組んで室内をうろつき始めた。クリフはぼそりと、そんなに心配なら探しに行けば、と呟いた。

聞こえない程度の小声のつもりだったが、梧桐は
「バカ者ー! なぜオレがあんなヘソもつむじも曲がりまくり男の心配などせねばならんのだーっ!」
と怒鳴って、すごい勢いでクリフの襟首をつかんだ。
「ギャーッ、だって君の学校の生徒じゃないかーっ!」
クリフはてっきりまた殴られるか投げ飛ばされるかするだろうと予想したが、梧桐はぱっと手を放した。クリフは床に尻もちをついた。

「セ…セージ?」
「それもそうだな。つむじも根性も曲がっていても明稜の生徒だ」
そう言うと、彼は財布と定期入れだけ持ってさっさと生徒会室を出ていった。ドアが閉められると、クリフは大きく溜め息をついた。
「はァ…殺されるかと思った…」

がちゃりとノブが回り、再び梧桐の顔が覗いた。
「わあっ!」
「クリフ、お前オレのかわりに三限目の英語に出ておけ」

答える間もなく扉は閉じた。伊織はキーを叩く手を止めた。

「……セージーッ! なんだよそれー!」
たっぷり十秒は絶句してから、ようやくクリフは文句を吐き出した。

 

「セージ」

正面玄関を出たところで、頭上から声がかかった。
「───伊織」
伊織は二階の窓から、わずかに身を乗り出してこちらを見ていた。細い髪が風にさらわれて、淡く金の光を撒く。梧桐は目を細めた。
「セージ。彼を救いたいのなら、迷ってはだめよ」

声が聴きたい、と。
昨夜遅くに八樹から電話があったと、告げたのは彼女だった。

「知っている」
伊織はかすかに笑ったようだった。彼女の唇が動いて、また言葉を紡いだ気がしたが、ちらちらとひらめく光でよく見えない。
梧桐は校門の方へと踵を返した。

(…光)

ゆらぐ金色の光。
あの色に覚えがあった。沈む夕日が最後に投げる色。

 

 

「…誰?」
と、その少年は問うた。
普通、助けられたら人間は感謝をするものだと思うが、彼の態度からは謝意どころか感情の片鱗すら伝わってこなかった。身体は傷だらけで、瞳は涙で濡れていたのだが、奇妙なことに、全く嘆いている風に見えなかった。

───興味を抱いたのは、おそらく自分の方が先だったろう。

「オレは1-Aの梧桐勢十郎だ」
と梧桐は言った。少年はひどく昏い瞳で梧桐の目を見た。
だが、視線が絡んだのはほんの一瞬だった。黒い瞳は、ゆらりと泳ぐように梧桐の肩の辺りに逸れた。彼はそのまま瞼を伏せた。すると睫が影を落として、光を失った虹彩はただの漆黒の穴になった。

「…八樹宗長」
半ば呟くように、彼は言った。
八樹か、と梧桐は聞き返したが、それきり返事もない。
全てを諦めたかのような昏い色が、梧桐の心にかすかな苛立ちを生んだ。
「…負け犬」
と、梧桐は言った。八樹はその言葉に顔を上げた。

「!」

梧桐はぎくりと息を呑んだ。
八樹の目の奥に、突然激しい炎にも似た強い光が浮いた。よく見ると、それは梧桐の背後の落日の朱を映していただけだったのだが、先刻までは存在しなかった感情の色も、確かにそこにあった。

まるで人形が息吹くが如く。

 

火が灯るように、腹の底が熱くなった。
「悔しいか」
八樹は答えない。
ただ、底深くに炎を抱いた瞳で梧桐を睨 [ね] めつけた。

「くやしければ強くなってみろ。負け犬」

 

 

梧桐は大きく息をついた。
あちこちを駆け回ったが、八樹の姿は見当たらなかった。町を出ているのかもしれない。梧桐は両手で軽く膝を伸ばし、駅に向かって走り出した。

駅員の一人が、八樹のことを憶えていた。
「確かか? このくらいの背丈で、前髪を真ん中で分けた根性の悪そうなキツネ顔の男だ」
梧桐は片手で、自分の頭よりも十センチばかり上を示して尋ねた。
「根性までは知らないけど、朝早くにそこの改札のとこでね、長いこと路線図眺めてたよ。背の高い子だったから覚えてる」

「どこへ行った? 電車に乗ったのか?」
梧桐はそう言いながら、窓口から数歩下がって路線図を目で辿った。
「さあ、そこまでは…」
三つ先のターミナル駅で、路線は四本に分かれていた。うち一本の駅名に覚えがあった。梧桐は券売機で切符を買った。駅員は、
「ねえ君、明稜だよね。今日、学校は…」
「創立記念日だ!」

5月1日という日取りはいかにも創立記念日に相応しい感じだが、制服姿で言っても説得力に欠ける。
「いやでも、君制服…」
「ええい、やかましい! オレの趣味だ!」
梧桐はそう怒鳴ると、自動改札を走り抜けた。

 

乗り換えた路線の、終着駅のふたつ手前で急行列車を降りた。
ひとつきりの改札から外へ出た時には、既に日は傾いていた。
金色に絡む、血のような紅が不快だった。

夕暮れの空を眺めるうち、幼い頃飼っていたカナリヤの姿が浮かんだ。
鮮やかな黄の羽に、じわりと血の色が滲んで。

───一羽だけで飼うと、時々こういうことがあるのよ。

母は言った。
カナリヤは鳥籠の中で、幾度も自身の羽を毟 [むし] った。その傷から細菌にでも感染したのか、程なくして水箱の脇で冷たくなっていた。

「…一羽だけ?」
梧桐は掌の中の小さな骸を見下ろした。
「庭に埋めてあげましょう」
母は梧桐の、空いている方の手を引いた。

梧桐は動かなかった。
じっと朱の滲んだ鳥の躰を見つめて、
「オレがいたのに」
母は困ったような笑みを浮かべた。

───きっと、

 

梧桐は茜色に染まる、川沿いの道を走った。
一度足を止め、広い河原を見渡した。
人の姿はない。梧桐はひとつ息をついた。

(…思い違いか?)

梧桐は苦笑した。
駅名を見た途端、八樹が逃げるとしたらここしかないと思い込んでしまったのだが。
「別に、約束をした訳でもないしな」

いいよ、と八樹は言った。
───そんな先のこと、約束しなくていいよ。

 

八樹とこの場所を訪れたのは、今から二年ほど前になる。
この河原に望遠鏡を据えて、二人でホテルの門限ぎりぎりまで月を見ていた。望遠鏡の倍率が低くて、月くらいしかまともに見えなかったのだ。梧桐は『天体望遠鏡』というものに過度の期待をしていたから、腹を立てて八樹に文句を言った。が、しばらく経つとそんなことはどうでも良くなってきた。

梧桐は河原の草の上にひっくり返った。
「服、汚れるよ」
と言いながら、八樹も彼の脇に座り込んだ。
「晴れてよかったね」
「そうだな」

降るような星空だった。地上の灯りが少し減るだけで、夜空はこんなに明るいものなのかと思った。

「…もう一晩くらい、ここにいたいな」
隣で八樹がつぶやいた。
「なんだ、オレは構わんぞ。どうせ夏休みだしな」
梧桐がそう答えると、八樹は呆気にとられたような顔で彼の方を見た。
「え? 嘘」
どうも梧桐に提案した訳ではなく、独り言か何かだったらしい。
「嘘など言ってどうなる」
「いや、でも…着替えとか一日分しかないし」

八樹は自分が言い出しておいて、わざわざ否定するような事を言った。
「一日くらい着替えなくても死なん」
「家にも連絡しなきゃならないし」
「だったら明日、電話すれば良かろう」
八樹はまだ何か言い返そうとしたが、梧桐が
「お前がそんなに帰りたいのなら帰るが」
と言うと黙った。そして、
「…本当にいいの?」
と訊いた。

「はじめからそう言っているだろうが」
八樹は膝を抱えた。
その後しばらく右手で耳の辺りにかかる髪をいじっていて、梧桐の位置からは表情が判らなくなった。
「…あ…」
微かな声を、梧桐は聞き止めた。
「あ?」

「───ありがとう…」

 

八樹に礼を言われたのは、後にも先にもあれ一度きりだ。
結果的にであれ、彼が梧桐に頼み事をしたのも、あの時だけだった。
八樹は基本的に、他人に要求するということがない。一人では手に余る事でも、二人分努力してどうにかしてしまう。

「だって、俺のために人に時間割 [さ] かせるなんて悪いじゃない」
わけを尋ねたら、そう言って笑った。

八樹が希わない理由を。
誰にも何も求めない理由を、梧桐は知っていた。

(叶えられたことがないからだ)

望めば苦もなく手に入る、些細な願いすら。

 

また来年も来ようと言った梧桐に、八樹は
「そんな先のこと、約束しなくていいよ」
と返した。

だって人の気持ちなんて簡単に変わるから、と。
すべてを諦観した、暗い穴を思わせるあの瞳で。

 

 

風が強くなった。
梧桐は、走り回ったせいで乱れた前髪を掻き上げた。
あのバカが、と毒づいて、再び駅の方角に向き直りかけた時、
草原の丈の高い草が大きく揺れて、黒い頭と、白いシャツの背中がのぞいた。

「! や…」
声をかけようとして一旦思いとどまり、梧桐は額に落ちかかった髪を手早く後ろに撫でつけた。必死に捜し回ったと思われるのは癪にさわる。

梧桐は八樹の背後の草をがさがさと踏み分けた。
「八樹!」

八樹はぽかんとして梧桐を見つめた。咄嗟に声も出ないらしい。
ざまあ見ろ。このくらいは驚いてもらわなくては割に合わない。
「……梧桐君」
「ばか者! 貴様がオレの声を聞きたいなどと言うから、こんな所まで来てしまったではないか! 声が聞きたいなら学校まで来んか! ええい、クリフには三限目の代理しか命じておらんのだぞ、お前のおかげで皆勤賞がパアだ!」

一息に言って、梧桐は八樹の脇に座り込んだ。
石があちこち突き出していてひどい座り心地だ。右手で尖った石の先端を引っ張ったりしていると、八樹は黙って手に持っていた雑誌を渡した。梧桐はそれを下に敷いて座り直した。

梧桐がぽつぽつと話をする間も、八樹はほとんど口を利かなかった。すぐに会話は途切れた。想い出を語るような雰囲気ではなかったし、八樹の両親の話を持ち出すことだけは避けたかった。

 

「帰ろう」
梧桐はそう言って腰を上げた。八樹は彼を見上げた。
もともと何処を見ているのか判然としない黒曜の瞳は束の間梧桐の両眼を見据え、やがてするりと彼の背後へ逃れた。

揺らいで逸れる視線。
それが怯えの表情だと気づいたのは、出会ってずいぶん経ってからだった。

(ああ)
また逃げるのだ、と梧桐は思う。
梧桐からも。自分自身からも。
それがどんな形であれ、

逃げ場のない鳥籠から逃げた、あの鳥のように。

迷うな、と伊織は言った。
(そうだ。それでも)
「八樹」
梧桐は、座り込んだまま動かない八樹に右手を伸ばした。
それでも。最初に手を引いたのは自分なのだ。

 

───きっと、あなたがそばにいることに気づかなかったのね。

 

八樹の指先は冷え切って、小さな鳥の亡骸を思わせた。

心の底のかすかな傷。ちっぽけで他愛ない、
けれど最初の死の記憶を。

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