絶望の丘

窓の外を、淡い黄と緑とが、空のぼやけた青を抱いて流れ去った。
菜の花畑のようだ。車窓に顔を寄せて見たが、花畑はごく狭いものだったのか、すぐに黄色い小さな点になって消えた。

八樹はそのまま窓に寄りかかった。
平日の昼間のせいだろう、列車内は空いていた。
セミクロスシートの向かい側には誰もいない。座席と窓の隙間から、いくつか離れたシートで白髪の老婆が眠っているのが見えた。八樹はまた、外に視線をうつした。

(…どこまで来たんだろう)

どこへ行くのだろう。
八樹は左手に握りしめていた切符を見た。そこに記された駅名は、もうだいぶ前に通り過ぎている。
折り良く巡回して来た車掌を呼び止め、二つ先の駅までの精算金額を払った。どこかで見た駅名だという気がしたが、思い出せなかった。

車掌は怪訝そうな顔で八樹を見て、
「高校生?」
と問うた。この路線に乗り換えてすぐ、制服の上着だけは脱いで鞄に入れてしまっていたが、やはり大学生や社会人には見えないらしい。
「学校は?」
「創立記念日なんです」

さらりと嘘が出た。
いかにも人の良さそうな車掌は、それで納得したようだ。いいね、と言って精算券を渡し、それから、八樹が学生鞄を隠すように置いていた雑誌に目を止めた。

「星。好きなの?」
理系雑誌の表紙には、大きく幾つかの星団の写真が載っていた。今朝、駅前の書店で購入したものだ。
星、と聞いて、頭の隅に閃くように、夕暮れのイメージが浮かんだ。
「…はい」
(どこかで見た名前)

───なつかしい駅。

「あ! 天文台に行くの?」
年配の車掌の声が、にわかに喜色を帯びた。どうやら天文好きらしい。
「天文台?」
「ここ、観測所のある駅でしょう」

そんな物があっただろうか。あの時は、河原で星を見た。
八樹が家から持っていった、ちゃちな望遠鏡で。

「…いえ。それは知りません」
「時間があるなら、行ってみるといいよ」
乗客がいなくて暇なのか、生来の気質なのか、車掌はずいぶんお節介だった。けれど八樹は、礼を言って頭を下げた。車掌は気をつけて、と言って後方の車両に移っていった。

 

見知らぬ人間と話すのは嫌いではない。

(余計な気遣いをしなくて済むから)

どうすれば相手の機嫌を損ねずにいられるのか、とか。
どうすれば相手の怒りを解くことができるのか、とか。一体どうしたら、

───どうしたら相手が自分を愛してくれるのか、とか。

 

八樹は苦笑した。
(…くだらない)
もう、そんな事を考える必要はなくなったのに。
駅名を告げるアナウンスが鳴った。八樹は席を立った。

 

 

古びた駅舎を抜けた瞬間、冴えた空気が身を包んだ。空が高い。
近くに地図の類は見当たらなかった。辺りを見回していると、三十代半ばくらいと見える主婦に話しかけられた。

「何か探してるの?」
比較的可愛らしい顔立ちの女性だったが、赤すぎる口紅が品を奪っていた。母と同じくらいの年齢だ、と思った途端、理不尽な嫌悪を感じた。しかし八樹はそれを色には出さずに尋ねた。
「…いえ。この辺りに、河原はありませんか?」
「河原? ここからだと、だいぶ離れているけど…」

主婦が説明する間、八樹は吸い寄せられるようにその唇の赤を見ていた。

血のようなどぎつい赤。

(…あの人も)
いつも、ひどく濃い色の紅をひいていた。その唇で、

───会うわけないでしょう。

その唇で、同じような暗紅色に塗りたくられた毒のある言葉を、

 

もう二度と宗長には会うな、と父は彼女に言った。

「お前はあの子のためにならない」
母は鼻で笑った。
そしてさも当然のように、毒々しい紅い唇で
「会うわけないでしょう」
と吐き捨てた。

八樹は学校から戻ったところで、廊下でその会話を耳にした。
(…今さら)
今さらだ、と思った。

母に疎まれていることはとうに知っていた。今さら、彼女の言葉に傷つくことなど有り得ない。八樹は目を閉じた。廊下の小窓から射す西日で、瞼の裏が深紅に染まった。見慣れた母の唇の色。

何故だろう。
ずっと母を見て育ってきたのに、母の顔が思い出せない。

───あの暗赤色の唇のほかは、何ひとつ思い出せない。

 

「どうしたの?」
主婦が心配そうに声をかけて来た。
白い貌 [かお] の中で赤い唇だけが、別の生き物のように動いた。

毒を含んだ紅 [くれない]。夕陽に透ける瞼の、

「…っ」
吐き気がした。彼女はこちらに手を伸ばした。
「大丈夫? 真っ青よ」

「触らないでくれ!」
八樹は思わず叫んだ。
自分でも滑稽になるような酷い怯えが、その声音には表れていた。主婦はびくりと手を引っ込めた。

「…ごめんなさい」
「………」
「誰か、呼んでくる?」
八樹は首を振った。主婦の言葉には戸惑いこそあれ、不快や怒りの念は感じられなかった。八樹は彼女に申し訳ないと思ったが、もう言葉が出なかった。

 

それから八樹は、夕陽の方角へあてもなく歩いた。

昨日もそうしていて、偶然小さな公園を見つけた。
八樹は誰もいない公園の、錆びたブランコに座った。あの後、両親に気づかれないようにそっと、西日で朱い廊下を戻り、鞄を持ったまま家を抜け出して来たのだ。

まるで全てに見放されたようだ。
この公園も。自分自身も。
そう思うと、赤く錆びた公園のくだらない静寂が、かすかな安堵を伴って肺の奥を満たしてゆく気がした。このまま。

この場所の空気に溶けてしまえたらいいのに。
(…溶けて)
消えてしまえたらいいのに。

 

しばらく経ってから家に戻ると、父も母も居なかった。八樹は二階の自分の部屋に上がり、机の上に鞄を置いた。ふと、筆立てのカッターナイフに目が行った。八樹は椅子に座って、カッターを手にとった。

ゆっくりと、一杯まで刃を出してみる。
ステンレスがかちかちと、時を刻むような正確なリズムで鳴った。
八樹は、ほとんど使っていない銀色の刃を、左手首に軽く当てた。冷えた金属の感触が快かった。

右手を、このまま力一杯引いたら死ぬかな、と思った。
三十度に傾いた切っ先で、すう、と手首を辿った。銀の色が、細く白い痕を曳 [ひ] いた。八樹はその傷をしばらく眺めた。血は出なかったが、周りがかすかに赤く、蚯蚓 [みみず] 腫れになった。

───死んでもいいなどと言って許されるのは、精一杯生きた人間だけだ。

怒ったような友人の顔が、刃の向こうに浮いた。
八樹は小さく笑った。

(…別に)
死ぬ気なんてないよ、と胸の内で呟く。あの時、それだけはしないと心に決めたのだ。八樹は息をつくと、カッターの刃をしまって筆立てに放り込んだ。

 

夕食を摂る気にはなれず、シャワーだけ浴びて八樹はベッドに潜り込んだ。
父は、その後しばらくして帰ってきた。母は戻らなかった。

時計の蓄光塗料が九時を回る頃、部屋のドアが叩かれた。
「宗長?」
八樹は返事をしなかった。話をするのは面倒だった。
扉が小さく軋んだ音を立てて開いた。

「もう寝ているのか?」
父はそう言いながら部屋に入り、ベッドの脇に立った。八樹はうすく目を開けた。電気の消えた部屋の中は、月光で仄 [ほの] 白かった。
「…母さんと、別れたよ」
宗長、と父は呟いて、大きな手で八樹の髪を撫でた。
「すまなかったな」

今さら、と八樹はまた思った。父は自分が起きていることに気づいているようだった。何か答えなければならない気がしたが、いくら心の中を探っても、父を傷つけずに済む言葉が見つからなかった。
八樹は結局、目を閉じて身を固くした。
父が吐息をひとつ落として部屋を出ていくまで、ずっとそうしていた。

 

父の足音が階段を下りていくのを聞きながら、八樹はもぞもぞと寝返りを打った。
すると手の先に、こつんと堅いものが触れた。

「?」
コードレス電話の子機だった。うっかり置き忘れていたらしい。八樹は何気なく「外線」のボタンを押した。ツー、という発信音が、闇の中で奇妙に大きく聴こえ、八樹は慌てて回線を切った。
しばらく待ってみたが、父が戻ってくる気配はない。八樹はそっと、枕元のスタンドを灯 [つ] けた。高校の名簿は、体育科のものしか見当たらなかった。八樹は中学の頃の名簿を引っ張り出して、A組の生徒の名を辿った。
確か、住所も電話も変わっていなかった筈だ。

 

呼び出し音が三回鳴った後、受話器を上げる音がした。

「はい」
聞き覚えのある声だった。
「あ、夜分すみません。明稜高校の八樹と申しますが、梧桐君は…」

「八樹…先輩?」
相手の声が、驚いたように少し高くなった。
それで誰だか判った。
「───伊織さん?」
すみません、と伊織は詫びた。
「勢十郎は、今はもうここにいないんです。何か御用なら、番号お教えしましょうか?」

八樹はためらった。用というほどのことはない。
「…いや、いいよ。用があったわけじゃないんだ」
「何か、あったんですか?」

気遣わしげな、綺麗なメゾ・ソプラノ。彼女の声は耳に快かった。
一瞬、両親のことを伊織に打ち明けてしまいたいという、幽かで奇妙な衝動が、心の底で揺れた。梧桐が、彼女に対してだけは素直なのも解る気がする。

「別に、何もないよ。…ただちょっと、声が聴きたくなって」
「え?」
八樹は右手でスタンドの灯りを落とした。
「…なんでもない。夜遅くにごめんね」
そう言って、返事を待たずに電話を切った。

部屋は再び青色の静寂に包まれた。
八樹は白い壁に凭 [もた] れた。
机と本棚との間に、三脚に据え付けられたまま、天体望遠鏡が埃を被っている。小学校の頃、母が彼に買い与えたものだ。倍率はせいぜい一万五千倍がいいところだったと思う。その程度では、遠くの星は肉眼で見るのと大差なかった。けれど八樹は母を喜ばせたくて、大きく見える、と嘘をついた。
母はそれを聞くと、花が開くようにあでやかに笑った。

(…初めから)
こんな風に捨てるくらいなら、初めから愛してくれなくてよかったのに。

八樹は、ずるずると崩れるようにベッドに横たわった。
もう、ずいぶん前から母のことを愛してはいなかった。憎んでさえいた。

───いなくなってくれればいい。

そう、本気で何度も思った。その希 [ねが] いは今日、叶ったのに。
それなのに、役立たずの望遠鏡は今もここに、後生大事に置かれている。
隅で埃をかぶって、使われることもなく、今もここに、

過去 [むかし] の母の幻影を抱いて。

 

(ばかばかしい)
馬鹿らしくて涙も出ない。
八樹は青い部屋で、くらくらと浅い眠りに落ちた。

目の奥がなぜか、痺れるように痛みつづけていた。

 

 

唐突に視界が開けた。
春にしては冷えた風が、頬をかすめて流れた。川面が赤い光を撥 [は] ね返して、眩しくかがやいていた。草原の丈の高い草が、騒々[ざわざわ] と鳴った。

「…あ…」
この場所だ。中学三年の夏、梧桐と来たことがある。

(天文台…?)

先刻の車掌の言葉を思い出す。そうだ、確か最初は天文台に行くつもりだったのだ。だが、折り悪しく一般公開していない時期で、その後さんざん歩き回った末に、この河原で星を見ようということになった。

八樹が一応、と思って持って来ていた望遠鏡に、梧桐は案の定ケチをつけた。
「遠くの星がまるで見えんぞ! これでも望遠鏡か!」
「仕方ないじゃないか、倍率低いんだから…」
梧桐は蠍座の辺りを眺めつつ、なおもぶつぶつ言った。

「オレは天体望遠鏡と言うから、オリオン座のばら星雲とやらが図鑑のようにはっきり見えるものかと思ったのだ」
「そんなもの、一般家庭にある訳ないだろ」
ついでにオリオン座は冬の星座で、ばら星雲は一角獣座だ、と言ってやりたい気がしたが、辛うじてそれはこらえた。梧桐はまたしばらくの間、あちこちに照準を合わせていたが、やがて
「おい、月はよく見えるぞ!」
と、顔を上げて笑った。

端が少しだけ欠けた十三夜の月は、肉眼にも煌々と明るかった。

 

八樹は、夕暮れの光で金に縁取られた河原に腰を下ろした。
思ったよりも石がごろごろして具合が悪かったので、学生鞄を敷いて座り直した。草が風に靡いて、輝く水面がのぞいた。八樹は膝を抱えた。

「…?」
突然、背後で草が不自然にがさがさと揺れた。
振り向く間もなく、怒りに満ちた声が頭上から降った。

「八樹!」

ほんの一日聞かなかっただけのその声は、ひどく懐かしく感じられた。
梧桐はじろりと八樹を睨んだ。普段きっちりと整えられている髪が、わずかに乱れていた。
八樹はしばらく呆けたように梧桐を眺めてから、ようやく小さな声で、梧桐君、と言った。

「ばか者!」
と梧桐は怒鳴った。

「貴様がオレの声を聞きたいなどと言うから、こんな所まで来てしまったではないか!」
声が聞きたければ学校に来んか、だとか、お前のおかげで皆勤賞がパアだとか、一通り文句を並べてから、梧桐は八樹の隣りに座った。が、やはり石がごつごつするのが気になるらしく、指先で尖った石を掘り返したりしている。八樹が手に持っていた雑誌を渡すと、梧桐はプレアデス星団の上に胡座 [あぐら] をかいた。

 

「伊織さんに聞いたの?」
と、八樹は尋ねた。
「…あれは勘がいいからな」
梧桐はそう言って、彼には珍しく後の言葉を濁した。
「…オレは…」
心なしか、梧桐の声が少し沈んだ。
「お前が妙なことを言うから、今頃どこかで野垂れ死んでいるかと思ったぞ」

八樹の右手が、無意識に左の二の腕を撫でた。
「まさか」
言いながら、八樹は自分の左手に視線を落とした。
手首の中ほどが、まだかすかに赤かった。

朱く滲んだ傷。冷たい銀の感触。最後の逃げ道。

(それを)
閉ざしたのは君だから。

 

梧桐は立ち上がり、帰ろう、と言った。八樹は彼を見上げた。梧桐の表情が、ほんの一瞬、苦しげに歪んだような気がした。
「…うん」

逃げ道を閉ざしたのは君だから、
自分にはもう、他に行ける場所がない。
どんなに深く冷えた場所でも、あの家に戻るほかない。

帰ろう、か。
(ああ、本当に)

君の言葉は残酷なほど正しくて、
───時々、叩き潰してしまいたくなる。

 

八樹は川向こうに目をやった。
沈みゆく陽の一部が雲に隠されて、潰れた人の頭部のようだ。
夕日は、気味が悪いほどの朱 [あか] だった。
母の、不自然に紅い唇の色。
ほそい蚯蚓腫れの色。
(…なんて)

綺麗な、血の色。

ねえ、もし俺がこの手を君の血に染めたとしても。
───それでも、君は俺に「生きろ」って言える?

 

「八樹」
梧桐は、座り込んだままの八樹に手を差し伸べた。八樹は軽く頭を振って、奇妙な幻想を締め出した。
けれど幻影は完全には消えず、胸の底に淡く血の朱を残した。

いつか。

自分は彼を、傷つけるのかもしれない。
(つまらない幻想だ)
と思ったが、その予感はゆるい渦を描いて、頭の芯をくらつかせた。

梧桐君、と八樹は呟いた。梧桐は不思議そうな顔をした。
「なんだ?」

(俺の、たったひとりの)

ひとつきりの、自分を繋ぎ止める枷 [かせ]。
顔を上げると、夕陽に照らされた梧桐の姿が、血に染まったように見えた。
自分は、

たぶんどこか、おかしいのだろう。
「───何でもない」
そう言って笑おうとしたが、うまく表情に出せなかった。

 

八樹は、傷のない右手を梧桐にのばした。
その手を、日没の最後の光が、ふかい緋の色に照らし出した。

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