銀ノ針
初めは鈴が鳴っているのだと思った。
電話のベルの音だ、と認識するのに数秒かかった。それは束の間響いて、途切れた。
入れ替わりに、高い女の声。
息づかいがかすかな悲鳴のようで、耳障りだった。
(うるせえ…)
半屋は目を開けた。
逆さになった窓の縁から覗く角度で、針のように細い、真昼の月が見えた。半屋は仰向けの姿勢のまま、白い三日月を眺めた。地平線の近くに、厚く雲が垂れ込めている。今夜は雨になるかも知れない。
(いや…)
空気がしんと冴えている。降るならば雪だろう。
とりとめのない思考は、廊下を慌ただしく駆ける足音に遮られた。
「工!」
勢い良くドアが開いて、先刻の耳に響くソプラノが飛び込んできた。
「何寝てんのよ! 起きろ!」
言うが早いか、姉は半屋の掛けていた布団を乱暴に引き剥がした。
「…いきなり何だよ…」
いいからこれ着て、と姉は冷えた制服を半屋に押しつけた。
「今日、日曜じゃねえか」
彼女はいつも、説明もせずに命令口調で指図してくる。理由を聞かされるのは、大抵ずっと後だ。
だからその時も、答えが返るとは思っていなかった。
「……梧桐君のお母さん。亡くなったって」
「───」
半屋は目を見開いた。いつ、と尋ねようとしたが、喉が掠れた音を立てたきり、言葉が出なくなった。
姉の声が、急に遠くなった。
木曜に亡くなって、昨日がお通夜だったって。
(…嘘だろ)
梧桐の母親が、しばらく前から入院していたのは知っている。何日か前、本人に直接聞いたのだ。
けれど。
命に関わるほど重い病気だったなんて聞いていない。
───梧桐?
花束を持った梧桐は、半屋に目を止めるとまずい、という顔をした。それがあまりあからさまだったので、難癖をつけずにはいられなくなった。
ここまで来ると、なかば習性のようなものだ。我ながら呆れる。
喧嘩腰に呼び止めると、梧桐は
「今日はお前と遊んでいるヒマはないのだ」
と言った。普段ならそれだけで乱闘になるところだが、その日の彼の口調には、全く棘が感じられなかった。半屋は拍子抜けした。
「…どこ行くんだよ」
構えを解いて、それだけ訊いてみた。
誰にも言うなよ、と梧桐は念を押してから、
「母の見舞いだ。この前少し、体調を崩してな」
オレが面会時間をあまり守らないので怒るのだ、と梧桐は笑った。
だから急いでいると、
笑っていた。
つい先日のことだ。
(───笑ってたんだ)
姉に背を押されるようにして家を出た。
「今日は生徒会、抜けられないのよ。用が済んだら、私もすぐ行くから」
いつもなら、なんでオレが、という台詞の出る場面だ。しかし今日は、胸の奥が空になって、反抗する気にもならなかった。半屋は梧桐の家に向かって歩きながら、空っぽの躰から声を絞り出そうとした。
すると溜め息がひとつ、白く空気に溶けた。
白い吐息。遠く、白い雲。白く細い、下弦の月。
───白い百合。
式場には、中空に居座った三日月によく似た曲線の百合の花が飾られていた。
梧桐はその前に立っていた。花の白と制服の黒が綺麗な対比になって、一枚の絵のようだった。
(嫌な色だ)
ぼんやりとそう考える。
梧桐にそぐわないその無彩色は、彼を別人のように見せた。
「おい」
声をかけると梧桐は顔を上げて、お前か、と言った。
「姉貴に聞いたんだ…」
半屋はもぞもぞと制服の上着の端を弄 [もてあそ] んだ。
手持ち無沙汰だ。花のひとつも持って来れば良かった、と後悔した。
梧桐は腕を組んだ。
「そうか」
「…その…」
左手が落ち着かなげに動いて、二つのピアスに触れる。輪の形をしたピアスが、ぶつかり合ってちりちりと鈴に似た音を立てた。
人を慰めるのは苦手だ。
まして自分は、家族や縁者を亡くしたことはない。
母を失った梧桐の心はわからない。
「まあ…元気出せよ」
逡巡の後に出た言葉は、自分の耳にもそらぞらしく響いた。
「何を言うか。オレはいつでも元気だ」
梧桐はそう言い返したが、普段のように笑いはしなかった。
たったそれだけのことで、ずいぶん印象が違うものだ、と半屋は思った。
───ひどく、遠く感じた。
「梧桐…」
何故、母親の病気のことをちゃんと話してくれなかったんだ、と尋ねようとした時、梧桐が入り口の方を見やって、小さく声を立てた。
半屋が振り返ると、小柄な少年がこちらに頭を下げたところだった。
少年は、そのまま背を向けて人々の中に紛れた。ちらりと、人形のように綺麗な造りの横顔が見えた。
見ていると、肩の少し下辺りで髪を切り揃えた少女の姿が、ついと彼の後を追った。色素のうすい髪に、光が映えて金の色にひらめいた。
見知った後ろ姿だった。
梧桐の幼なじみの、伊織という少女。
梧桐は少年の名を呟いたようだが、低くて聞き取れなかった。
「今の奴、親戚か?」
と半屋は訊いた。
「いや。学校の同級生だ」
梧桐はそう言って、少年の去った方を眺めた。言われてみれば、制服が同じだった。
「なんだ、オレとあいつがどこか似ているか?」
「あ? …いや、全然。ただ、なんとなくそんな気がしたんだ」
見るからにおとなしそうな少年だった。梧桐とは正反対のタイプだ。あの造り物めいた面差しはむしろ、
(…ああ)
伊織の持つ雰囲気に似ているのだ。
初めて伊織に会った時、梧桐は苗字しか言わなかった。それでしばらくの間、半屋は彼女を「伊織」という名前の梧桐の妹だと思い込んでいたのだ。彼と外見は似ても似つかないが、底深く流れる何かが同じだ、という気がした。多分、それであの少年のことも身内だと思ったのだろう。
梧桐はふうん、とか何とか、彼には珍しい生返事に近い応 [いら] えを返した。
話題が途切れると、奇妙な間が出来た。梧桐とは会うたび喧嘩ばかりしていたから、話をするとなると何を言っていいかわからない。かといって、まさか葬式の席で「拳で語る」わけにもいかない。
(…違う。そうじゃない)
そんなことが理由ではない。
梧桐と自分の間には、確かに距離があるのだ。
「半屋?」
梧桐が、不審そうに長い沈黙を破った。半屋は別の話題を探そうかと思ったが、結局、
「…あ…じゃあ、後で姉貴も来るっつってたから」
と言い残して、式場を後にした。
背後から、梧桐がわざわざ悪かったな、と声をかけた。
半屋は左手を軽く上げてそれに応えると、足早に表に出た。
振り返って、またあの遠いモノクロームを見るのは御免だった。
今朝、東にかたまっていた雲が、既に頭上まで広がっていた。
けれど月は、しぶとく雲の切れ間に引っ掛かっていた。
三日月の銀の切っ先が、突き刺さりそうに鋭い。式場の百合を思い出しかけて、半屋は目を逸らした。
(どうかしてるな、今日は)
朝から、胸の奥にかすかな苛立ちが陣取っている。梧桐の母の話を聞いてからずっとだ。けれど、自分が誰に対して苛立っているのかは、判然としなかった。
考え事をしながら、ぶらぶらと歩いていたせいだろう。
向かいから来た男に気づかず、突き当たってしまった。
「あ、悪ィ」
言って、相手の顔も見ずに通り過ぎようとすると、ぐいと腕を引かれた。
「待てよ」
「…あ?」
敵意を含んだ声音に、じろりと視線を返す。
半屋よりいくらか背の高い相手は、にやにやと笑っていた。
「半屋じゃねえか。奇遇だなあ」
右頬と顎に、大きな絆創膏が貼られた顔。どこかで見たような気もするが、思い出せない。
「てめえ、誰だ?」
と訊くと、男のこめかみがぴくりと引きつった。
「覚えてねえってのか? お前が殴った傷だろうが、コレは!」
男は頬と顎を大袈裟に指し示した。
梧桐以外に負けた覚えはないから、この男も自分が倒した相手なのだろう。負けた時の傷を見せびらかして何が面白いのか、半屋は理解しかねた。
「知るか」
言い捨てて去ろうとすると、更に数人が現れて半屋を取り囲んだ。
全員、高校生のようだ。どうやら最初から待ち伏せられていたらしい。半屋は舌打ちした。
ぶつかってきた男が、ちょっと来いよ、と半屋の肩に手をかけた。おそらく、近くに人数を集めてあるのだろう。だが、この奇妙な苛立ちを紛らすには丁度いいかもしれない。
「上等だ」
と、半屋は言った。
夕陽が血のような、鮮やかに紅い雫を地表にこぼして沈んだ。
それを眺めつつ、半屋は手にした煙草を揉み消した。
吸い始めたのがつい最近のせいか、あまりうまいと思った事はないが、それにしても今日は特別不味かった。火の消えた煙草を、眼下を流れる汚れた川に投げ捨てる。
「…退屈しのぎにもなりゃしねえ」
呟いて、半屋は重い足取りで川縁 [べり] を歩き出した。手応えのない連中だったが、制服だけはしっかり汚してくれたから、姉より早く帰らないとまた文句を言われる。それも喧嘩をするな、ではなく、つまらない喧嘩で服を汚すな、と怒られるのだ。
姉のふくれっ面を思い出して、半屋は可笑しくなった。
(…もし)
姉が自分より先に死んだら、と考える。
想像もつかなかったが、それはひどく恐ろしいことに思えた。
梧桐の無表情を思い出す。
なぜあんな風に、平然としていられるのだろう。
(いや)
平気なはずはない。虚勢に決まっているのだ。
自分に対してでなければ、梧桐は心の内を見せたのだろうか。
例えば伊織とか、
(今日来ていた、あの…)
半屋はぎくりと足を止めた。
川にかかる橋の上に、件 [くだん] の少年が立っていた。欄干に肘をついて、水面を眺めている。こちらには気づいていないらしい。向こうは自分の顔も見ていない筈だから、ここで声を掛けるのも妙だ。
知らん顔を決め込むことにして、半屋が再び足を踏み出しかけた時、
「!」
少年の瞳から、大粒の涙が溢れて頬を伝うのが見えた。
「……い…」
彼は、掠れた声で何かつぶやいた。
だが、風の音に遮られて半屋の耳には届かなかった。
別に、見ようと思って見たわけではない。
が、謂われのない罪悪感を覚えて半屋は踵を返した。あの橋を渡らないと帰れないのだが、彼のすぐ脇を通っていく気にはとてもなれなかった。半屋は、川に沿った道路に設えられたベンチに腰を下ろした。
(なんだ、あいつ…)
───梧桐のために泣いているのか?
他に理由は思いつかない。だが、
なぜ彼が泣くのだ。梧桐本人だって、泣いてはいなかったのに。
――他人のために泣ける人間は強いよ。
姉が昔言った言葉が、不意に耳を打った。
「他人のためだろうが自分のためだろうが、すぐ泣くような奴は弱いだろ」
そう返すと、姉は
「あんたには、まだ分かんないのね」
と笑った。
「今でも分からねえよ」
半屋はひとりごちた。
梧桐のために泣く? 冗談じゃない。
───そういう人間はね、泣いたってちゃんと立ち上がれるのよ。
自分が、一度でも弱くなったらもう立てないと、姉は指摘していたのだろうか。
確か、梧桐に出会う前だった。ぎりぎりに張った糸のような生き方をしていたと思う。
一度切れてしまったら、元には戻らないだろう。自分でもどこかでそう自覚していたから、何があっても決して弱音は吐かなかった。
強くなったのだろうか。
あの頃よりも、自分は。
胸の中の答えは茫漠 [ぼうばく] として、掴めなかった。
「…ちくしょう」
半屋は呟く。
「強くなりてえ」
あの少年のように。伊織のように。梧桐が、数歩前を歩いていく。
(梧桐)
知らず、足が彼の後を追って動いた。強くなりたい。
梧桐の背を追うのではなく、彼と、肩を並べて歩ける人間になりたい。
───そうすれば、彼は心を開いてくれるのだろうか。
半屋は眼を開いた。
はらはらと、空から雪が落ちて来る。
いつの間にか眠っていたらしい。冷気が首筋を這い下りて、半屋は身震いした。橋の上に視線をうつす。少年の姿は既になかった。
一度頭を振って、時計を見た。早く戻らないと、喧嘩の事を抜きにしても姉にどやされそうだ。
橋を渡る半屋を、背広姿の男が足早に追い越していった。半屋は、一瞬足を止めた。
同じ光景を、ついさっき見たように思ったのだ。
(…夢…?)
夢を見ていた気がするが、わずかな焦燥の色を残して、それは消えてしまっていた。赤く錆びた色の夢の残滓 [ざんし] を、半屋はたぐろうとした。
何か、大切なことを忘れている気がした。
けれどその感覚も、しばらく経つとあやふやになってしまった。
多分、梧桐の無表情も、身代わりのように泣いていた少年も、くだらない喧嘩も、ほどなく自分はこんな風に忘れていくのだろう。
(…まあ、いいか)
白く息をついて、半屋は川面に落ちる雪を眺めた。
本当に大事なことなら、いつか思い出すだろう。