―――ずっと祝ってやるから。
オレがこの先も、ずっと祝ってやるから、だから。
春咲センチメンタル side-A
掌に落ちかかったそれは、薄く、つめたく、生気に乏しかった。
桜の花弁らしい。指先で触れると、端が枯れてかさついていた。
「もう桜も終わりですね」
団子を盆に載せて運んできた少女が、そう声をかけた。アキラは微笑した。
「ええ。ですが、今年は長かった方じゃないですか?」
「そうですね。もう、十七日だもの」
そんなになりますか、と呟いてから、アキラは今日が自分の誕生日だったことに気づいた。もっとも、それはかつての仲間が勝手に宣言したものだったのだが。
「あら、じゃあお祝いをしなきゃ。お団子一本おまけしておきますね」
安いお祝いですけど、と少女は笑った。
ふわりと空気が温[ぬく] むような、優しい笑みだった。
風が舞い、足元を埋めた花弁ごと、春の気配を攫っていく。
あの時も、花の盛りは遅かった。
酒気を含んだ身体を、アキラは半分ほど葉ばかりになった桜の幹に凭せかけていた。
「アキラー! 呑んでるかー!」
酔うと途端に乱暴になる口調で、灯がこちらに向かって叫んだ。酒で半ば朦朧とした頭に響く。アキラは文句を言った。
「うるせーな! 未成年にムチャクチャ呑ませんじゃねえよ!」
呑んでいたわりにはまともに喋れた、と思ったのだが、横からほたるが口を出した。
「アキラ、舌っ足らず」
「何だとコラ、あんた私に口答えすんのかぁ!」
ほとんど同時に灯が怒鳴って、アキラはどちらに言い返したものか一瞬迷った。
その間に灯の方が突進してきた。
「生意気ー! 誰があんたのおしめ取り替えてやったと思ってんだ!」
「取り替えてもらってねえよ! …うわやめろ、灯!」
灯はアキラにのしかかるようにして、頭から一升瓶の酒を浴びせた。
さすがに見かねたのか、梵天丸が口を入れた。
「おいおい灯、その辺にしとけよ」
「…あ?」
梵天丸はぎくりとした。
振り向いた彼女の目が、完全にすわっている。
「梵、テメエ私に文句が…」
「ま…待て! 落ち着け灯吉郎!」
「その名で呼ぶなっつってんだろ――!」
灯はアキラを放り出し、今度は梵天丸に飛びかかっていった。
一升瓶攻撃から解放されたアキラは、はあ、と息を吐[つ] いて後ろにひっくり返った。
ほたるの横顔が、さかさまに見えた。灯と梵天丸の漫才を、愉快そうに眺めている。
「楽しいねぇ」
言って、彼はアキラを振り返った。頬がほんのりと赤らんでいる。
そりゃお前はな、と毒づいて、アキラは濡れた上着を脱いだ。
「うー、酒くせぇ。また洗わなきゃなんねえじゃねーか、灯のヤツ。昼に洗ったばっかなのに」
「そうか…ご愁傷様」
「お前、言葉の使い方間違ってるぞ」
湿気で貼りついた桜花を払い落としつつアキラは立ち上がり、上衣を手近の枝に掛けた。
拍子に、ほたるが傾けた杯に、はらりと花弁が落ちた。
薄紅を散り敷いた地面に座り込んだまま、彼はこちらを見上げた。
「桜ももう終わりだねえ」
いくらか酔っているのだろう、普段からおっとりとした口調がさらに緩慢になって、どこか甘えたような印象だった。
「アキラはいいなあ、こんな時季に生まれて」
「………」
あくまで灯が勝手に決めたことで、本当の誕生日ではないのだが。
たぶんこの漢は、そんな経緯は忘れてしまっているのだろう。指摘してやろうかと思ったが、アキラは結局ただ頷いて、ほたるの隣にすとんと座り直した。
そう言われると、まるでこの日にほんとうにこの世に生を享けたような気がして。
―――祝福されて生まれたような気がして、嬉しかったのだ。
「ほたるの誕生日だって、いい季節じゃんか。去年は同じ日に花火大会があったよな」
「あ、そうか。うん、花火もいいよね」
「夏になったら、また祝ってやるからな、皆で」
来年も再来年もずっと、とアキラは笑った。なんだかやけに気分がよかった。
ほたるは彼にしては複雑な表情でアキラを見つめた。
物悲しいような、諦観したような、そんな顔つきだった。それからちいさく呟いた。
「…ずっと、は無理だと思う」
「なんでだよ」
「だって、いつかは皆いなくなっちゃうと思うし」
俺の誕生日を覚えてる奴なんて、お前たちのほかにいないから。
だからずっとは無理なんだよ、と彼は言った。
アキラはむくれてほたるを睨んだ。
そして、ふと悲しくなった。
この時、彼が言った『いつか』の真実の意味を。
知ったのはずっと、ずっと先のことだったのだけれど。
もし自分たちがいなくなったら、ほたるには本当に何もなくなってしまう気がしたのだった。
「……そんな言い方すんなよ」
口をついた言葉がかすかにふるえて、こちらを見たほたるは、珍しく申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、アキラ」
「謝るくらいなら最初から言うな」
「…ごめん」
「人の誕生日に辛気臭いこと言いやがって。祝えよ、バカ」
「おめでとう」
「心がこもってねえ」
他愛ない、いとおしい会話の隙間を、桜の花弁が、さらさらとすべっていく。
アキラは抱えた膝に顎を載せた。
「なぁ、オレが、覚えててやるから。覚えててずっと祝ってやるから」
膝のあいだにぱたぱたと落ちる、白い花びらは月光に透けるよう。
「だからそんなふうに言うなよ」
ほたるの、長く編んだ金髪の先が春風に揺れて、アキラの左肘をやわらかく撫でた。
「…わかった。じゃあオレも、アキラの誕生日は祝ってあげる」
―――どこにいても。
呼吸のような、かすかな囁きをアキラは敢えて無視した。
「忘れんなよ」
「………忘れなかったら、祝ってあげる」
テメエはどうしてそう一言多いんだよ、とアキラが突っかかろうとした時、梵天丸が駆け戻ってきた。
付近一帯を灯に追い回されたらしい。
「だー、もー勘弁しろ!」
背後に向かって叫んだところで、狂がひょいと足を出した。梵天丸は見事それに蹴つまづいて、草地に顔から突っ込んだ。
「…狂オォ! てめえ!」
「うるせえんだよ」
言いつつ狂はにやりと笑った。
「そろそろ引き上げるぜ」
その言葉を潮に、座はお開きとなった。
アキラは少し前を歩くほたるの袖を、こっそりと引いた。
「なあ、約束だからな」
ほたるは振り向いて、春の花みたいに笑った。
けれど、返事はしなかった。
その夏を待たずに、『四聖天』は解散した。
踊る花弁のまぼろしが見えた気がして、アキラは軽く眉間を押さえた。
「お待たせしました。…どうかされました?」
少女の明るい声音で、アキラは我に返った。
「いいえ、何も。少し、友人のことを思い出したものですから」
あの漢は、今頃どうしているのだろう。
数年前の今日のことを、頭の隅にでも留めているだろうか。
(まさか)
ほたるに限って覚えているわけがない。彼にとっては今日は、普段と何ら変わりない、穏やかな春の日であることだろう。アキラは密かに苦笑した。
けれど、夏になったら、私は祝ってやろう。
約束、したのだから。
散り急ぐ桜の、潮騒に似たざわめきが耳を打った。
きっと祝ってやろう。
彼がもう、この世界でひとりになってしまわないように。