明日は会議があるとか。
暦くらい見ろとか。
たまには外に出ろとか。

いろいろ煩いことを言われたのだけれど、その間じゅう、ずっと情景はぼんやりとしていた。

 

春咲センチメンタル side-H

 

「会議は十八日だと、四日には通達してあっただろう!」
辰伶はがなり立てながら壁に貼られた暦を指したが、そこではたと手を止めた。
斜めに傾いだ紙の端は、黄ばんでぺらりとめくれている。
「…なぜ未だに去年の暦が貼ってあるんだ」
「貼りかえてないから」

事実を教えただけなのに、異母兄はまた怒り出した。
「替えろ、みっともない! 今年の分は年明けにオレが配ってやったろうが!」
そうして狭い部屋をひとわたり見渡すと、隅の方から埃をかぶった暦を引っぱり出し、『卯月』の面を広げて鋲で壁に留めた。暦が四ヶ月ほども放りっぱなしになっていたことには文句を言わない。
予想していたのかもしれないし、単に言い疲れたのかもしれない。

辰伶は筆記具を取り出すと、十六日までの日付を斜線で消していった。そして、十八日にでかでかと丸をつけ、その脇に会議 巳の刻、と記した。

「忘れるなよ」

彼は念を押すと、部屋を出ていった。
襖が開いた拍子に、ひとつきりの窓から散り際の桜の花弁がふわりと舞い込んだ。
熒惑は布団に転がったままそれを眺めた。
今しがた派手に書き込みをされた暦が、視界にさかさまに入ってきた。

四月十七日、という日付だけが、手つかずでぽつんと取り残されていた。
「あ」
自分の声が、まるで他人のものみたいに遠くで聞こえた。
かわりに楽しげな科白が、耳のおくで渦を巻いた。

 

―――忘れんなよ。

誰かが、散り急ぐ花の向こうでわらっている、嬉しげに。
(ああ、そうか)
今日は、誕生日だから。
皆が祝ってくれるから、たのしそうに笑っている。そうして彼は振り向いて、自分の名前を呼ぶのだが、言葉はかすれてどうしても聞きとれないのだった。

ざあざあと、風の音が大きくて。
春霞が距離をひろげて。

見えない言の葉を掴み取ろうと、熒惑は虚空に腕を伸ばした。
窓から吹き込んだ花弁がゆびさきを撫でて、ひらりと落ちた。

 

「…おめでとう」

アキラ、と。
ささやいた名は、痺れるような感覚を残して、舌先からすべり落ちていって。
すぐに誰のことかも、わからなくなってしまった。

 

―――覚えててやるから、
どこか泣きそうな表情で、俯いて、彼は言った。

俺が覚えてて、ずっと祝ってやるから、だからそんな風に言うなよ。

 

そんな幼い、甘いことばを、信じたわけではなかったけれど。
わかった、と、“ほたる”は答えた。
じゃあ俺も、お前の誕生日はちゃんと祝ってあげる。

 

祝ってあげる、
どこにいても、誰といても、

もう誰も、いなくても。

 

おめでとう。
もう一度つぶやいた、言葉は声にならなかった。

舞い散る桜を追って、瞬いた瞳からひとすじの涙がこぼれ、
陽に灼けた畳に落ちて、色濃く丸い跡になった。

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