スノーフラワー
鈍色 [にびいろ] の天から、雪が零れてくる。
眩しい白が、地上に降 [くだ] り落ちる。
(花のようだ)
と勢十郎は思う。
母と見た桜に似ている。
母は今、あの空のどこかにいるのだろうか。
そんな事を考える自分が可笑しくて、勢十郎は小さく笑った。
息が白く舞った。
父が日本を離れてから、母は病がちになった。何度も入退院を繰り返していたが、今年の桜が散る頃、またひどく体調を崩した。
母のいる病院に、勢十郎は毎日のように足を運んだ。
行くたび色々な話をした。
学校のこと、伊織のこと、半屋のこと、八樹のこと。友人達のこと。
母は静かに微笑んでいた。
───もういいのよ、勢十郎。
吐息のように囁かれた言葉。
一体何が「もういい」のか、尋ねることはできなかった。
それが最後の言葉だった。
母さんは幸せだったわ。もういいのよ、勢十郎。
なにが幸せだ、と呟いてみる。
(やっと、あの男から解放されたのに)
ようやく自由になれたのに、今度は病に倒れて。
いつか、幸せにしてあげるから。何度そう告げたか判らない。
いつも母さんが笑っていられるように。幸せに。いつか、いつか、
その「いつか」はもう、永遠に来ない。
何故だろう、と思う。
葬式の時、半屋が来ているのを見た。
いつも憎まれ口しか叩かない奴が、今日はやけにしおらしく、不器用ながら慰めの言葉までかけていった。普段ならからかってやるところだが、今日はそんな気にはならなかった。
八樹も来ていた。勢十郎に気づくと、遠くから軽く頭を下げた。
彼が来るとは思わなかった。いつも挑むような目で自分を見ていたから、憎まれているのだろうと思っていた。
意外だった。彼は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
(伊織は)
伊織は通夜の間も葬式の時も、ずっと無言だった。時折勢十郎に、気づかうような目を向けたが、近づいては来なかった。
態度こそ違えど、それは彼らなりの思いやりなのだろう。
「…なぜだ」
と、声を落とす。
自分の周りには、気遣ってくれる多くの人々がいるのに。
なぜ、たった一人を失うだけでこんなに悲しいのだろう。
悲しくて、涙も出ない。勢十郎は空を仰いだ。
「セージ」
凛と澄んだ声が、背後から聞こえた。
「風邪をひくわ」
勢十郎は振り向いた。
降りしきる白の中に、赤い傘があざやかにひとつ。
傘がすい、と上がって、雪のように白い、彼の幼なじみの姿がのぞいた。
「…伊織」
伊織は傘を、勢十郎にさしかけた。
それで初めて、自分がずいぶん長い間、雪の中に立っていたことに気づいた。上着の首筋の雪が溶けて、ひどく身体が冷えていた。
「寒い」
勢十郎は呟いた。
伊織は左手を、勢十郎の頬に伸ばした。勢十郎は彼女の背を抱いた。
赤い傘が、雪の中に落ちた。
「…おばさまと見た桜に似ているわ」
伊織は言った。
「ああ」
似ている、と言おうとして、声が続かなくなった。
「…泣いていいか」
伊織の耳許 [もと] に言葉を落とす。目の奥が熱くなった。
「セージ…またすぐ、春が来るから」
伊織の声は、わずかに高く震えていた。
母と見た桜の舞う、美しい季節。
降りそそぐ、雪の如き花弁。
笑っていた母。
「春は、来るから…」
伊織は勢十郎の髪を撫でた。白い指に、溶けた雪の結晶が伝った。
勢十郎は、伊織の肩に顔を埋めた。
悲しみの消える季節が、きっと来るから。呪文のように、彼女は繰り返す。
それはかすかな希望だった。
雪の中に咲く、白い花のような。