3月5日。

楓の葉がはらりと落ちた。
湯舟から右手ですくい上げたそれは、初秋だというのにまるで春先のような甘い緑。

月の光のせいかもしれない。八樹は黄金の色をした月を見上げた。

すでに真夜中に近い旅館の中は、人の動く気配もない。しばらく前までは大騒ぎだったのが嘘のようだ。
八樹は自分の左腕に目を落とし、軽く息を吐いた。

(…だから団体行動は嫌いなんだ)

建前で付き合っている「友人」に合わせるだけでも疲れるというのに、ぱっと見が穏やかなせいで、その連中から些細なことでからかわれたりもする。
(何時に風呂に入ろうが俺の勝手だろ)
そう言いたかったが、彼らとは今夜の旅館でしか一緒にならないのだから、と思ってこらえた。

 

明日になれば、体育科のクラスメートとは別行動だ。
クラスの人間は誰も、八樹と行動を共にしたがらなかった。

それはそうだろうな、と八樹は思う。
何しろ八樹が希望場所を合わせたのはあの、

「こらあー! とっくに消灯は過ぎておるぞ! 何をしとるかー!」

ちょうど彼の顔が浮かんだ時、壊れそうな勢いで露天風呂の出入口の戸が開いた。

「ご…梧桐君?」
「───八樹か?」
なんだ、と言って梧桐は浴場に入ってきた。

「今頃一人で淋しく風呂か? ここの温泉はいいだろう、オレももう一度入りに来たのだ」
「………」
今消灯時間がどうとか言ってなかったか、とか、君だって同類項じゃないかとか、なんで修学旅行で温泉旅館? とか、言いたいことは多かったが、とりあえずどこからツッコミを入れたらいいのかわからず八樹は黙った。

梧桐は、片足で底に沈んだ葉を除けて湯舟に入った。
「半屋の親戚の紹介なのだ」
「半屋君の?」

明稜のようなマンモス校では、修学旅行で全員一緒の移動はせず、各自希望場所ごとに分かれて行動する。御幸や生徒会の恵比須理平、旅行先での梧桐の暴挙を心配する嘉神などが、梧桐と希望場所を合わせてきたのは解る。
だが、半屋も一緒だったのは意外だった。
半屋は意地でも梧桐と離れて行動するだろうと思っていたが、そうか、と得心する。
(親戚がらみか)

八樹は自分から梧桐と希望を合わせた。
他に気心の知れた人間がいなかった。

(…ああ)
半屋も、もしかしたらそうだったかも知れない。

「そういえば、半屋君は?夕方辺りから見かけなかったけど」
「その親戚の家に挨拶に行ったぞ。今夜はそっちに泊まるのかもしれん」
あいつは姉にも頭が上がらんが、親戚連中にも弱いのだ、と言って梧桐は笑った。

 

「いいね。半屋君は」

思わず言葉が口をついた。
からかわれるかと思ったが、彼は軽く目を伏せて微笑しただけだった。
「そうだな」

湯舟に浮いた楓の葉を指でつまんで、
「少し時期が早かったな」
と梧桐は言った。楓は、葉先だけに淡く朱を含んでいる。
「もう少しすれば綺麗だろうね」

答えて、八樹は頭上の木々を仰いだ。翠[みどり]と紅が月光に透けて美しかった。梧桐も梢を見上げ、ややあって視線を落とした。

彼は八樹の左腕を見ている。八樹は気づかない振りをした。

「…その傷は」

梧桐の声はかすかだった。
「まだ消えないのか」
「………」
八樹の左肩から肘にかけて、赤味の差した肌に白く、一文字に傷が浮き出ていた。普段は判らないが、血行の具合などで時折浮かんでくる。

 

古い───古い傷。

「…いつもは見えないよ。もう、何年も前の事だし」
「中2の終わりだ」
と、梧桐は言った。
「3月5日だった」
忘れてくれていいのに、と八樹は笑った。梧桐はどこか自身に言い聞かせるように、低くつぶやいた。

「忘れるものか」

ああ、そうだ、と八樹は思い出す。
3月5日。
卒業式が間近だった。

 

 

その日も八樹は、例によって上級生から呼び出された。
初めから、少し変だと思っていた。普段よりも時刻が遅い。校舎内の人影もまばらだった。そして、いつもより大勢の気配があった。
(近くにいる)
自分と、自分を囲んで立つ上級生の周りに、大勢が息を潜めているのが感じられる。

(…なんのために)

「貴様ら、何をしとるか!」
良く通る声と足音が聞こえたとき、あっ、と思った。

彼らは初めから、梧桐が狙いだったのだ。
卒業式も近い。自分は、梧桐へのお礼参りのための餌なのだ、と。

梧桐はその頃、よく遅くまで学校に残っていた。以前はそんなことは稀 [まれ] だった。
前年の冬に、母親を亡くして以来だ。それ以降、彼は喧嘩の数も負う怪我の数も、目に見えて増えた。わざわざ余計な争いまで起こしていたように思う。

自棄 [やけ] になっているように見えた。
けれど八樹は、彼に慰めの言葉をかけることも、同情の眼差しを向けることもしなかった。出来なかった。

(…俺が)
梧桐に同情なんて笑わせる。
彼の母の葬式の時、八樹はいっそ自分の母親もいなくなってくれればいい、とまで思ったのだ。

八樹の両親は、八樹が中学に上がる少し前から不仲だった。
父は仕事で家に居つかず、母は居間で酒を呑むか、よその男の所に泊まり込むかで、帰宅した時に家に明かりがついていることはほとんど無かった。
でも、暗い家に帰るのを淋しいとは思わなかった。

───明かりがついている時の方が怖かった。
母は酒を呑んでいる時、いつも酷い言葉を浴びせてきたから。

八樹は梧桐に言葉をかけなかった。
ただ彼の教室の方を、樹の緑を透かして眺めることが多くなった。

いつだったか、そうしていて梧桐が中庭を通り抜けて行くのに気づいた事がある。彼は歩きながら、ふとこちらを見た。
違う所を見ていたのかもしれない。けれど、彼は自分の方を見ていたのだ、という奇妙な確信があった。

(どこか似ている)

多分彼もそう思っていたのだろう。
それは安堵と、かすかな悲しみを心の底に残した。

 

「いい加減にしておけ! 卒業式も近いというのにみっともない!」
梧桐は足音も荒く近づいて怒鳴った。上級生の一人が、
「卒業式が近いからだろ」
と嗤 [わら] った。
「今まで世話になったなあ、梧桐」

その台詞が合図だったように、校舎の陰から、棒や鉄パイプなどを手にした連中がぞろぞろと現れた。
梧桐は不遜な態度を崩さない。

「ふん、このオレに楯突く気か。おもしろい」
言うが早いか、梧桐は目の前にいた男を蹴り飛ばした。男はぎゃっ、と短い悲鳴を上げて倒れた。

「相手になってやる。来い!」

「野郎!」
かっとなった連中が、一斉に梧桐に襲いかかる。
あっという間に乱闘になった。

一対多数だというのに、梧桐は的確に相手を倒してゆく。十分ほども経つと、上級生のグループはあらかた片付けられてしまった。人数が減ってようやく、八樹にも梧桐の姿が見えた。大きな怪我は無いようだが、殴られたのか右の額が切れて、血が流れていた。

「…だ…」
大丈夫?と言おうとした時だった。

残ったグループのうちの一人が何か毒づいて、ポケットからナイフを取り出した。梧桐は気づいていない。
右目に血が流れ込んで、見えていないのだ。

 

「梧桐君!」

 

彼の名を呼んだのは、その時が初めてだったように思う。

(大して親しかったわけじゃない)
どうしてその時彼を庇ったのか、八樹は今でも思い出せない。
ただ、動脈を掠めた傷から生温 [ぬる] い血が溢れ出して、腕を、背を濡らしてゆくのを感じながら、心の隅で死んでもいい、と考えたことを憶えている。
生きていたって仕方がない。

───生まなければ良かった。

母に投げつけられた言葉が、胸の底に昏 [くら] く沈んでいた。
お前さえいなければ、自由を得られた、と。

(母さん)
生きていても仕方ない。
いっそ、

───母さんは、俺が死んだら幸せになれるの?

 

「八樹!」
梧桐は制服のシャツを脱いで、止血しようと八樹の腕をとった。
刺した男が慌てて逃げるのが、視界の端に映った。

梧桐君、と八樹は言った。 「もう…いい…」

死んだっていい。唇はそう動いたが、声になったかどうか判らなかった。

「馬鹿者!貴様、負け犬の上に馬鹿か!」
梧桐は怒鳴った。本気で怒っていた。
「死んでもいいなどと言って許されるのは、精一杯生きた人間だけだ!」

声が微かにふるえていた。
梧桐が泣いているような気がして、八樹は目を閉じた。
すると気が遠くなった。

 

 

目覚めたのは病院だった。
梧桐が枕元の椅子に座って、不機嫌そうにこちらを睨んでいた。

「…梧桐君…」
目、疲れない? と訊こうかと思ったが、また怒らせそうなので止めておいた。窓の外の空が朱い。
「もう…夕方?」
「朝焼けだ」

梧桐は窓の外にちらりと目をやって言った。
八樹は病室の中を見回した。四人部屋のようだが、隣と向かいのベッドは空いていた。斜[はす]向かいには誰かいたが、カーテンが閉められていた。
「お前の家にも連絡したが、留守でな」
多少言いにくそうに、梧桐は声を落とした。

「父さんは今、出張中だから」
母は…昨夜もまた、帰らなかったのだろう。だが、今はその方が有り難かった。いじめに遭っていることは、家族にも友人にも、絶対に知られたくなかった。

(…おかしな状況だな)

と思う。家族も友人も知らないことを、今横にいる、別段親しくもない梧桐だけが知っている。
かすかに胸が痛む。

それは奇妙な、白々とした寂しさだった。
どこか、今上ろうとする朝日にも似て。

 

 

八樹、と声をかけられて我に返った。
「なに?」
梧桐はのろのろと膝を抱えた。
「すまなかったな」

梧桐が何を詫びているのか解らなかったが、八樹はうん、と応えた。
そして、少し考えてから、
「君には借りしか無かったからね」
と言った。
「なんだ、ならばまだ全然足りないな」
梧桐はそう言って笑った。
八樹は彼の肩越しに、小さく瞬く星を眺めた。

 

さて、と梧桐はひとつ息をついた。
「オレはもう出るぞ」
と言って八樹を見る。
「あ、俺はもう少しここにいるよ」
「上せるぞ」
「平気だよ。俺、体温高いんだ」
梧桐はそうか、と言って立ち上がった。
出口に向かう背に、八樹は声を投げた。

「ねえ梧桐君、いつか」

「ん?」
梧桐が振り返る。八樹は少し考えていたが、結局、
「いや、何でもない」
と言った。
「言いかけてやめるのはお前の悪い癖だな。そうやって言いたい事も言わんから、友人が少ないのだ」
「悪かったね、友達少なくて。その代わり、俺は君ほど敵も作ってないよ」

梧桐は笑って言い返した。
「バカ者、王者は敵も味方も多いと決まっているのだ」

 

梧桐がいなくなると、浴場は急に静かになった。八樹は湯舟の楓の葉をまた眺めた。緑の内に走る葉脈の赤。流れ出る血の色。

言いかけた言葉を、心の底で呟いてみる。
(梧桐君。いつか、借りとか貸しとか)
そんな理由をつけなくてもいい、

「…ただの、親しい友達になれたらいいね」

声は、しんと冷えた空気に溶けて消えた。八樹は少し笑った。
楓が、ゆるい螺旋を描いて水底に沈んだ。

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