「駄目」
だぁめ、という発音で、灯はうたうように言った。

 

シークレット

 

「…じゃあ、この前アキラの味噌汁にわさび入れた話は…」
「それもだめ。あの時私もその場に居たでしょ」

そっか、とほたるは息をついた。灯は月明かりの下では飴色に見える、彼の三つ編みの先を、人差し指でくるくると弄んでいた。唇に浮かぶ笑みは、実に楽しげだ。

だからきっと、死ぬようなひどい怪我ではないのだろう。
ほたるはそう判じてから、失血の所為で霞んだ思考を、のろのろと巡らせた。戦いで乱れた髪が、灯の着物の上を滑って、かすかな衣擦れの音を立てる。膝に乗せたほたるの頭を、灯は軽く撫でた。

その拍子に錫杖が揺れる。
しゃらん、と鳴った、それをほたるは仰ぎ見た。
どうしたの、と灯が笑う。
灯の声は好きだった。笑うとまるで、掌で鈴を転がすようで。

―――けれど、今は、その鈴に瑕がついている。

灯は気づいている。

 

錫杖の先の環がはじく月光が、桜のいろをした髪の隙間でちらちらと踊る。
(…あれって、まるでオレたちみたい)

 

人の絆は、鎖の輪のようなものだと―――

ひとつひとつの輪がどこまでも繋がっていくものだと、
言ったのは誰だったか。
太白か、辰伶か。まさか遊庵がそんな考えを抱く筈はないから、たぶん彼らのどちらかだろう。

 

だったら、俺たちのつながりはあの錫杖の環だ。中心のひとつを欠いただけで、ばらばらに弾け飛んでしまう。その日がそう遠くないことも。

「…知ってる」

吐息に織り交ぜて零した科白を、灯は聞き止めた。
「ん? なぁに」
声音は砂糖菓子のように甘くて、脆い。
こわしたくなくて、ほたるは無意識に言葉を選んだ。

「灯ちゃん。オレ、ほんとはね」
「うん」
言いながら、灯は細い指で淡黄色の髪を梳いた。ほたるは目を閉じた。

 

「灯ちゃんのこと、大好きなんだ」
ぴくりと手の動きが止まる。ややあって、編んだ髪からはみ出した一束が、ついと引かれた。灯は小さく息を吐いた。

「馬鹿ね。それも知ってるわよ」
「…知ってると思ってた」

微かに、笑ったような気配が伝わる。まあいいわ、と灯は言った。
「いい秘密を聞いたから。特別に、治してあげる」

 

右腕の傷は、急速に痛みを失った。霧散する、という感覚の方が、より近いかもしれない。いたみ、と呼ばれるものが傷口から流れ出て、胞子のようにちいさな粒になって散らばっていく。その『いたみ』もまた自分自身だ、という感覚があるから、それはとても奇妙だ。
自分は確かにここにいるのに、別の自分はばらばらになって空気に溶けていく。どこへ行くのだろう。

 

 ばらばらになってしまったら、
 自分たちはどこへ行くのだろう?

 

瞼を閉じていても、ひかりが感じられる。太陽みたいだ、といつも思う。
灯の法力が放つ光は、地上に遍[あまね] く降り注ぐ、あのひかりに似ている。

すぐに消えてしまうその光が今夜はとても惜しくて、ほたるは残滓を追って薄く目を開いた。灯の束ねた髪の先に、それはひっかかるようにして居座っていた。
伸ばした右手の、爪のさきでふわりと消える。
腕は不自由なく動いた。

 

灯はなかなか膝から出ようとしないほたるのこめかみをつついた。
「ほら、もう治ったでしょ。いつまで甘えてんの」
「甘えてないし」
「じゃあなんでくっついてんの」
「なんとなく」

あんたって、と言いかけて、灯は額を左手で押さえた。
「ほんと、馬鹿ねえ。膝くらいいつでも貸してあげるからほら、どきなさい」

いつでも、という言葉だけが宙に浮いたように不自然で。こころのどこかに、棘のように刺さるのだけれど、その心も奇妙に宙ぶらりんで、痛いのかどうかさえよくわからない。
そう言った灯の方が、痛いような顔で、微かに眉を寄せた。

「…わかった。ごめんね」
既に傷跡も見えない右腕を支えに、立ち上がる。そうして灯を待たずに歩き出した。足下の草が、さらさらと爪先をくすぐった。

 

―――ごめんね、灯ちゃん。オレ、ほんとうは。

(もう、そろそろおしまいだって、知ってるんだ)
そして、灯がそれに気づいていることも。

だけど、口に出したら傷つけるに違いないから。
だからそれは、
(オレだけの秘密)

 

ちらりと振り返ると、足場にしていた岩から、灯がことさらゆっくりと立ち上がったところだった。こちらに向かって、早く行け、と手を振る。
ほたるは三日月に背を向け、自身の影を踏みながら歩いた。

この距離なら。

逆光なら、泣きそうな表情に気づかれないとでも、灯は思ったろうか?

 

見えなくたって知ってる。
居場所をくれたあの鬼を、灯がどれだけ想っているか、知っている。
そのかなしみを知っている。
それに気づかれたくないと、そう思っていることも、

 

―――ほんとうは。

 

ほたるはただ知らぬ振りで、つめたい月光の下を歩いた。
やたらに明るいその光が、ひどく辛辣な皮肉のように思えた。

切な系100のお題 No.85「シークレット」
「SAMURAI DEEPER KYO」~ほたる