最初に腰を上げたのは、梵天丸だった。
いつものように上衣を肩から掛けて、いつものように顎を片手で撫でながら。
「んじゃ、オレももう行くぜ」

いつものように気軽な調子で、そう告げた。

 

さよなら

 

雷が落ちた。
樹木の幹だろうか、何かが裂ける大きな音が遠くで響いて、やがて消えた。

「嫌ね」
灯が呟いた。
戸口に背を向けて座っていたアキラは、床に投げ出した足先を組みかえた。ほたるはその様子をぼんやりと眺めながら、隅の方で膝を抱えていた。誰も返事をしなかった。

狂は行ってしまった。

 

だからほたるは、ここに戻ってきた。ほかに帰る場所などなかったし、行くべき場所すら思い浮かばなかった。しかし、どこかへ行かなくてはならないことだけは解っていた。
彼らを繋ぐ環は、なくなってしまったのだから。

灯は居たたまれなくなったのか、ことさら陽気に言った。
「私、どっかの山で修行でもしてみようかしら？ 一遍やってみたかったのよね、山籠り！」
もっと強くなれば狂に一撃入れられるかもだし、と、彼女は冗談めかしたが、声がすこし上ずっていた。
灯は立ち上がった。

錫杖が、しゃん、と鳴った。

「…じゃあ、ね」
言って、彼女は微笑した。花のような笑みだった。

「―――うん。バイバイ」
ほたるは片手を上げた。
灯の苦しさを多少でも消せるように、笑って見送りたいと思ったのだが、結局うまくいかなかった。

こまかい雨が降りつづく中、灯は去った。

 

 

アキラはずっと、黒っぽく光る床面を睨みつけていた。
稲光がちりちりと走る分厚い雲をほたるは見上げ、それから視線を落とした。水に濡れたちいさな蜘蛛が、重くなった躯を引きずりながら、床を這いずっていた。それは部屋の南の角へ向かい、壁にぶつかると、ずるずると漆喰に沿って進み始めた。

―――どこへ行っても行き止まりなのに。

「ねえ、アキラ」
名を呼ばれてようやく、彼は顔を上げてこちらを見た。が、すぐにまた俯いてしまった。

「オレ、どこに行けばいいのかわかんない」
「…うん」
開いたままの窓から、霧に似た雨の粒が吹き入って背を濡らしたが、ほたるは気づきもしなかった。
「どこ、帰ったらいいのかわからない」
「うん…」

けれど、どこかへ行かなくてはいけないのだ。
きずなは毀れてしまったのだから。

 

ほたるは右手で、短くしすぎた足の爪を弄った。指先が痛んだ。
アキラは抱いた膝に顔を埋めた。

そうして息をひそめて、あるべき最後のことばを待った。

 

その一言で、この重く、やるせなく、せつない空気は破られて。
幸福なときは終わるのだ。

やがてかすかな呼気とともに、
―――ただ、一言。